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伊丹市の歴史
江戸時代の村
野間村―領主と文芸―
野間村とは
野間村は幕府・忍藩・尼崎藩など、時代別に異なる領主を迎えてきており、そのため人々とそれぞれの領主との関係を物語る興味深い資料も多く残されています。
そのなかでも、貞享3年(1686)に忍藩阿部氏が摂津国に領地を与えられてから(新田中野村・昆陽村・千僧村など市域内外の諸地域。野間村はこの時まだ忍藩領になっていません)100年目にあたる天明5年(1785)に、その祝儀が行なわれたことを伝える文書は注目されます。
明治時代にまとめられた阿部氏の公式記録『公餘録』には、この年の正月に阿部氏当主の名代(代理)が徳川家康を祀る日光東照宮に遣わされたこと、また2月には摂津領有100周年のお祝いが大坂であり、お酒やお吸い物の振舞がなされたことが記されています。
伊丹市域でも新田中野地区の素盞嗚神社の額に、阿部氏が摂津の領地を得た貞享3年、ここに稲荷社を建立し、その100年後にそれを再建したことが記されていましたが、阪神・淡路大震災でこの額は失われたとのことです。
庄屋の引き継ぎ文書と日記
江戸時代、庄屋の手元には村の重要な公的書類や諸道具類が保管され、これらは庄屋の交替にともなって,新しい庄屋に順次引き継がれていきました。
野間村でも、こうした形で村文書や諸道具が代々の庄屋に受け継がれました。その具体的な内容は、村の書類・諸道具の引継目録から読み取れます。そして、ここに記されたもののなかには、江戸時代に庄屋を勤めていた旧家の資料や村の共有資料として現在まで伝えられているものもあるのです。
また、野間村の庄屋を勤めていたお宅からは、村の公的な文書だけでなく、江戸時代後期から明治初年ごろの当主たちが記した日記(農事日誌)が発見されました。これらの日記は、当時の野間の人々の生活や世の中の様子、そして農作業の実態を知ることのできる、大変興味深いものだといえます。
野間村の文芸
江戸時代の伊丹郷町で俳諧が盛んであったことは有名ですが、野間村周辺でもそうした活動を確認することができます。
野間村では、李峯という雅号を称する人物(庄屋の一族か)が俳句を嗜んでおり、その作品を池田の清書所(俳諧の師匠と、不特定多数の弟子との間を、通信教育のような形で仲介する役割を果たす)に送っていたようです。
また新田中野村や山田村など、周辺諸地域の人々とも俳諧を介した形での交流があったことがうかがえます。
このほか、清荒神や住吉大社などへの奉納句の募集案内なども残されています。