市立伊丹ミュージアム

伊丹市の歴史

江戸時代の村

山田村

山田村とは

 山田村は、寺本村の南に位置し、北西端を山陽道がかすめています。宝徳4年(1452)2月19日の与一大夫等下地預け状(稲垣文書)によると、「山田せう下村衞門三郎下地」2反は地下(村)のものとなっていましたが、この時に宮内大夫に預けられたとあります。署名している与一大夫と斎阿弥は山田庄の村落の代表者と考えられます。なお白井系図によると、天正6年(1578)頃、山田城主白井栄正らが荒木村重と争って没落したといいます。文禄3年(1594)、片桐且元による検地があり(同年9月晦日「山田村検地帳」山田部落有文書)、惣都合髙391石余・家27軒。慶長国絵図では髙427石余、また元和3年(1617)の摂津一国御改帳によると幕府領大和小泉藩領地となっています。しかし同年尼崎藩領となり、そのまま明治維新を迎えます。
 用水は昆陽下池から取水していましたが、慶長13年(1608)に昆陽村などが下池を埋立て、その代わり昆陽井から「大ゆり樋」に水が落ちる慣行が決められましたが、その後、昆陽村がこの仕組を変えようとして争論になりました。大ゆり樋は山田村を含む5村もの田地をうるおしていた取樋です。さらに後、寛保3年(1743)には寺本村正覚院前と一乗院前からの分水溝を引くことに変わりました。
 山田村では、近世初頭から酒造業が展開し、慶長後期には白井栄正の子市右衛門正次が湯山(現神戸市北区)・篠山・摂津大坂へ酒を売りに行き、万治2年(1659)及び同4年には蔵が建てられたといいます(白井家文書)。明暦2年(1656)には7人の酒造家がおり、3年の市右衛門の酒造米髙は1800石、他の3人も1000石を超え、山田村の酒造米髙は6950石でした。しかし、相次ぐ減醸令によって延宝8年(1680)には346石にまで激減し、この頃から尼崎や兵庫津への株の売却が相次いぎました(「村中酒作髙之覚」山田部落有文書)。しかし、元禄10年(1697)には新城屋五郎右衛門が江戸に酒問屋の出店を出し、正徳3年(1713)頃、弟の権右衛門とともに新城屋新田(現尼崎市)の開発を始め、享保元年(1716)に146石余の検地を受けました(『尼崎志』)。
 産土神は大梵天王社(現髙皇産霊尊神社)です。室町時代、幕府の分裂に端を発した観応の擾乱で、髙師直がこの付近で討たれたといわれ、村内に「師直塚」があり、16坪が除地となっていました。

(『兵庫県の地名 Ⅰ』(平凡社、2001年)より)

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