市立伊丹ミュージアム

伊丹市の歴史

江戸時代の村

昆陽―昆陽池・宿場と新撰組―

伊丹市域と昆陽村の位置

昆陽村とは

 昆陽は、伊丹市域の中央部、市役所や博物館がある千僧のすぐ西に位置しています。山陽道(西国街道)が東西に通り、有馬への道が交差する宿場町として発展しました。史料によっては、「小屋村」、「崑陽宿村」などと表記されている場合もあります。
 地名の由来は、中臣氏がこの地を支配し、祖先の天児屋命の名を取って「児屋」と名づけたことが始まりで、僧・行基がこの地に建てた寺が「児屋寺」と呼ばれ、のちに佳字を選んで「昆陽寺」となったため、地名もそれに合わせて「昆陽」に改められたとされています。
 近世初期は幕府領で、元禄7年(1694)から武蔵国忍藩の領主・阿部氏の所領となりました。文政6年(1823)3月24日に幕府領に戻り、明治に至ります。村高は元和2年(1616)頃の「摂津一国高改帳」など近世初期の記録では1391石余、宝暦年間(1751-63)の「昆陽組邑鑑」では1970石余、そして天保5年(1834)の「天保五年摂津国郷帳」など近世後期の記録では1370石余となっています。
 阿部氏は、寛永16年(1639)に忍藩に入封(にゅうほう、大名などが自分の与えられた土地に初めて入ること)しました。正武の代には、貞享3年(1686)・元禄7年(1694)の2度にわたって摂津国川辺郡に加増を受け、忍藩は武蔵国・上野国・相模国・摂津国に計10万石を領有しました。貞享4年(1687)には上方支配の拠点として新田中野村に陣屋(領主が支配地に設置した屋敷)が置かれ、藩の役人が常駐したと考えられています。

天保十四年昆陽村絵図

大庄屋組

 幕府や藩は、領内を支配するために「組」(大庄屋組)という組織を設置することがあります。「組」は近隣の数ヶ村で構成され、それを統括するために「大庄屋」という役職が置かれました。「組」は所属する村のうち大庄屋が置かれた村の名前を冠して「○○組」と呼ばれました。伊丹の忍藩領の村々は昆陽村を中心とする「昆陽組」に属していました。

昆陽7町

 昆陽村には東から東町・中町・辻町・大工町・市場町・佐藤町・小井ノ内という7つの町があり、それぞれ別々に自治が行われていました。宗門改帳や五人組帳などの村の記録もそれぞれの町ごとに作られています。
 大工町には多くの大工が住み、「昆陽組」と呼ばれる大工組が組織されていました。大工は「大工組」に所属し、組頭の指示・監督のもとで働きました。伊丹市域には、「昆陽組」のほか、「伊丹組」「鴻池組」などがありましたが、これらの大工組は互いに営業区域を定めて独占権をもっているわけではありませんでした。そのため、大工組同士では、営業権をめぐって出入(訴訟)が起こることもありました。

昆陽井と昆陽池

昆陽村は、用水を昆陽井と昆陽池から得ていました。
 井とは川や池から田に水を引くための水路のことです。武庫川から水を引く昆陽井は、取水口が西野にあり、昆陽・千僧・寺本・堀池・池尻・山田・野間・南野・御願塚の9ヶ村の田畑を潤していました。これらの村々は井組(水利組合)を結成しており、その中で昆陽村が井親という元締めの役をつとめていました。
 江戸時代には用水をめぐって村々の間でよく争いが起こりましたが、昆陽井は水量が豊富だったためか、井組内での目立った水争いは起きていません。ただし、武庫川沿いの他の井組の村々とは争いも多く、井親である昆陽村はそれらの争論の処理にあたることが多かったようです。
 昆陽池は、奈良時代の高僧・行基が造ったと言われています。以来、洪水を防ぐ溜め池として、また農業用水池として人々に活用されてきました。
 なお、「行基年譜」という記録に、行基の造った池として「昆陽上池」・「昆陽下池」があったとされています。現在の昆陽池は「昆陽上池」にあたりますが、「昆陽下池」は現存しません。「昆陽下池」はどうなってしまったのでしょうか。
野間村の記録「万覚帳」には、慶長13年(1608)に昆陽村と池尻村が昆陽下池を埋めて田地にしたいと願い出て認められたことが書かれています。また、「昆陽井切所目論見図」からは、昆陽下池が今の昆陽池(昆陽上池)の西方、池尻村の北側にあったことをうかがうことができます。このように古文書や絵図を読み解くことで、現存しない昆陽下池の位置や歴史がわかるのです。

昭和30年頃の昆陽池

昆陽駅 ―人とモノの行き交う所―

 江戸時代、幕府の統治のための公道として街道が整備され、その基点として各所に宿場が設置されました。宿場とは、駅(輸送機能)と宿(宿泊施設)を兼ね備えたところをいいます。駅には、公用の荷物を次の駅に継ぎ送るための馬と人足(労働者)が置かれていました。
 西国街道沿いにある昆陽村には、宿場が設けられました。駅所に指定されたのは寛永期(1624-43)頃と考えられています。昆陽駅には宝暦年間(1751-63)には12頭の馬がいて、馬借(馬を使った運送業者)が運送業務を行なっていました。
 享保期(1716-35)になり、凶作によって経済的繁栄が後退すると、商品の流通量が減少するようになります。荷物の輸送量が減ると、荷物の取り扱いをめぐる競争が激しくなり、宿駅間に争論が起こることも多くなりました。昆陽より早く元和3年(1617)に駅所に指定された伊丹や、正規の駅所ではないものの尼崎藩の公用を勤めていた尼崎の馬借と、荷物の継ぎ立てをめぐって、たびたび争論となっています。
 また、競争相手は馬借だけではありませんでした。猪名川や武庫川の水運を使った通船です。これには、取り扱う荷物が減り、馬借渡世が立ち行かなくなるとして、近隣の宿駅がそろって反対しています。

新撰組と昆陽駅

 幕末、京都の朝廷を政権の中心にすえようとする長州・土佐藩の主導する尊皇攘夷派と、幕府を中心に国政の改革を行なおうとする会津・薩摩両藩の率いる公武合体派の抗争が続きました。
 元治元年(1864)7月19日に起こった長州藩と会津・薩摩両藩の激戦(禁門の変)で長州藩は敗れ、西国街道を西へ敗走しました。その際、長州藩の荷物(鉄砲・槍など)が、瀬川宿(現箕面市)を経て昆陽駅に届けられました。昆陽駅から間道(違法な抜け道)を通って西宮方面に継ぎ送るよう指示されたのですが、昆陽駅がこれを断って荷物を留め置くとともに奉行所に申し出ました。
 25日に新撰組がその荷物を引き取ろうとしましたが、昆陽駅は奉行所に届け出た荷物であるから渡すことはできないと拒否しました。そのため、新撰組は、もしこれらの荷物を長州藩などが受け取りに来ても渡さないことを昆陽駅に約束させ、ひとまず引き上げました。しかし、翌26日、昆陽駅の拒否を押し切ったかたちで荷物は新撰組によって引き取られ、西宮駅へと継ぎ立てられました。昆陽には、宿駅と新撰組がやり取りした文書が残されています。

口達
乍恐御受書

昆陽の本陣

 江戸時代、諸藩の大名は江戸の藩邸と国元を一年ごとに往復しました。これを参勤交代といいます。参勤交代の大名は、その往復の休泊には「本陣」(宿泊施設)を利用しました。大名の休泊予約が重なった場合には、代わりの「脇本陣」を利用することもありました。大名が本陣で休泊する際には、大名が休泊中であることを往来者に知らせるための「関札」と呼ばれる看板を本陣の前にかけておきました。
 本陣は旧家であることが多く、宿役人(宿駅の業務を行なう役人)を兼ねるなど、宿駅の取り締まりを任されている場合が多くありました。昆陽宿の本陣については、史料がほとんど残存しないため、詳しいことは分かっていません。残された数少ない史料から、江戸時代初期には佐藤家が本陣を勤めており、幕末に川端家・松村家に代わったとされています。

長勢橋

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