市立伊丹ミュージアム

伊丹市の歴史

江戸時代の村

口酒井 ―水にまつわる村の記録―

伊丹市域と口酒井の位置

口酒井とは

 口酒井は田能(たの、尼崎市)の北、森本(伊丹市)の南に位置しており、猪名川とその分流である藻川(もがわ)に挟まれた砂州と、猪名川左岸の氾濫原の二つに分断されています。水の豊かな地域で、縄文時代晩期には稲作が行われていたことが判っています。
 口酒井は明治以前、酒井村(※)と呼ばれていました。村としての成立期は不詳ですが、14世紀の史料で早くも酒井村の表記を確認することができます。
「九名井」(くめいゆ、現在は「くめい」と読む)という複数村で用水取をしていた井組(ゆぐみ)の一員で、水利に関係する史料が多く残されています。また、猪名川と藻川に接しており、氾濫原でもある口酒井は、古来より水害の多い場所でした。
 口酒井にとって水は非常に重要で、切っても切り離せない存在です。時に村へ恩恵を与え、そして時に村へ牙をむく、水にまつわるできごとを中心に、口酒井の歴史と村の人々の生活についてご紹介いたします。

  • 明治6年(1873)、同じ川辺郡内にほかの酒井村が存在するため(現三田市)、「猪名川の河口に近い方の酒井村」として「口酒井村」と改称しました。口酒井村は明治22年の町村制施行によって神津村の大字口酒井となります。このページでは、14世紀から明治6年までの口酒井地域を「酒井村」、明治6年から22年までの口酒井地域を「口酒井村」、明治22年以降及びそれ以外の時代の口酒井地域を「口酒井」と表記します。

江戸時代以前の口酒井 -口酒井遺跡と川辺南条、酒井村の初出-

 口酒井地域には、縄文時代晩期以降の遺構が重複して存在します。この口酒井遺跡は、猪名川と藻川の分流する地点からやや南に下った猪名川左岸に立地しています。口酒井遺跡の発掘調査は昭和53年(1978)から始まり、籾痕が付いた縄文時代晩期の土器が見つかり、特にこの地で弥生時代以前から稲作が行われていたことが明らかになりました。また、弥生時代の住居跡や円形・方形の溝をめぐらした墓など、貴重な発見が相次ぎました。 さて、「酒井」という地名は、平安時代中期に作られた辞書である「和名類聚抄」に見える平安時代の「河辺郡坂合(さかい)郷」に由来すると考えられます。「河辺郡坂合郷」には、川辺南条の条里が敷かれていました。条里制とは、大化改新以後から中世後期頃までの土地区画制度のことです。約109メートル間隔で引かれた平行線が縦横で交わり、正方形に区分されていました。口酒井では現在も条里の名残を確認することができます。 村としての成立期は不詳ですが、嘉元2年(1304)12月17日付けの「浄土寺殿寄進米上日記」(勝尾寺文書)において、「酒井村」という文言を確認できます。 村は天正8年(1580)に移転しており、かつては猪名川と藻川の間の砂州にありました。おそらく、洪水のために集落の移転を余儀なくされ、猪名川の東へ移ったのだと考えられます。

籾痕のある凸帯紋土器(浅鉢)

江戸時代の酒井村

 江戸時代の酒井村は、田能村(現尼崎市)の北、森本村(現伊丹市)の南側に位置し、藻川と猪名川に囲われた中州と猪名川の左岸に分かれ、集落は猪名川の東側にありました。 江戸時代初頭は幕府領でしたが、寛永3年(1626)に阿部正次が大坂城代となり、摂津国の内3万石を加増され、酒井村は武蔵国岩槻藩(いわつきはん、現埼玉県)阿部氏の所領となりました。正次は正保4年(1647)に大坂城内で逝去し、酒井村黄檗宗(おうばくしゅう)松源庵(しょうげんあん)に墓所が建てられ、位牌が祀られました。 正次の逝去により、酒井村は一旦、幕府領へと戻りました。その直後の慶安元年(1648)6月、保科正貞が大坂定番に就任し摂津国の内1万石の加増を受けました。ここに、正貞を藩主とする1万7千石の上総国飯野藩(いいのはん、現千葉県)が誕生し、酒井村は同藩領となりました。そして、飯野藩保科氏領のまま明治維新を迎えます。

酒井村絵図(口酒井農業水利組合文書)

酒井村の寺社

 酒井村の氏神は春日神社で、猪名川左岸の河畔に鎮座しています。本殿は寛永18年(1641)に建立された一間社春日造りの建物です。寛永18年に本殿が建立された際の棟札と、安政5年(1858)に修復された際の棟札が残されています。本殿(附:寛永18年・安政5年の棟札2枚)が昭和51年(1976)、兵庫県の有形重要文化財に指定されています。 現在、棟札は本殿内に、また本殿は立派な覆屋に納められています。 村の寺は玄徳寺です。玄徳寺は延徳~明応年間(1489~1501)の頃に開いた念仏道場に始まり、その後、元和年間(1615~1624)に本願寺13代良如上人に寺号を許可され、玄徳寺と称しました。 一方、本堂内に安置されている親鸞聖人御影裏面の記録によれば、天正4年(1576)に道場として創建されたといいます。いずれにせよ、道場の性格が強く、本堂は寺院建築ではなく一般住宅建築です。 また、酒井村には黄檗宗松源庵という、大庄屋家であった長沢家の屋敷地に建てられた庵があります。ここには長沢家累代の墓と、かつて酒井村の領主であった岩槻藩阿部備中守正次(大坂城代)の位牌が祀られています。

春日神社拝殿

九名井をめぐる水論

 九名井は猪名川の左岸、西桑津村(現伊丹市)領の堤に取樋(とりひ、取水のための井堰(いせき))を設けていた用水路で、複数村で取水していました。井組は、酒井村・森本村岩屋村(以上現伊丹市)・田能村(現尼崎市)・の西郷4か村と、勝部村(かつべむら)・桜塚村・原田村・曽根村・岡山村(以上現豊中市)の原田郷5か村で構成されていました(「九名井組」)。管理の中心を担う「井親」は原田郷の村々で、当番制の「井年番」と呼ばれる人々が差配していました。 西桑津村の北側に設けられた取樋から取水された水は、西桑津村・東桑津村(現伊丹市)の集落の間を抜け、西から東へ向かって流れ、各村の田畑へ至っていました。 酒井村へ用水を引く溝は「蕪田溝(酒井溝)」と岩屋村・田能村と共有の「石うど溝」がありました。 人は水なしでは生きられません。江戸時代、水をめぐる争いはめずらしいものではありませんでした。酒井村においても、江戸時代を通して九名井をめぐる水論が起きています。 たとえば、宝永6年(1709)の秋、西郷4か村が伏樋(ふせひ)を深く伏せたことにより、この低い伏樋の方に水が流れ、原田郷へ流れなくなったため原田郷5か村が西郷4か村を相手取り京都奉行所に訴えを起こしています。奉行所の検使が相論となっている場所を見分し、十分に詮議したうえで、宝永7年4月に両郷の間で和談が成立しています。 しかし同年、今度は西郷が、井親である原田郷が土手崩れなどにより九名井本流の溝を土砂さらいする際、年々溝幅を切り広げたことを問題にしました。これに対して原田郷は、従来通りに溝さらえを行っており、溝を切り広げてはいないと主張しました。この時は、双方の言い分どちらとも言い難いため、これからは今の溝幅のままにしておき、渇水の際には、酒井溝から岩屋溝までは、本流の南側から幅2間だけ溝をさらうようにといった判決が下されました。 また、延享元年(1744)1月に九名井の取水口が破損したため、東・西桑津村が普請を願い出て4月には新しく普請をしていました。ところが、取水に支障が出たとして九名井組がこの新しい取水口の枠所を取り壊してしまい、両桑津村が起訴しました。翌年3月には近隣7か村の仲介によって、古い枠所や論所が確認され双方の納得のもと証文が取り交わされます。 しかし、この枠所は木製であったため、炎天や雨水により朽ちやすくなっていました。枠所の普請は東・西桑津村の負担であったため、両桑津村は木製からより頑強な石製へ変更したい旨を願い出ました。両桑津村と九名井組の村々の間で相談し、石枠への変更が実現しました。

九名井溝幅間数絵図(口酒井農業水利組合文書)

改称と町村制の施行

 明治6年(1868)、酒井村は同じ川辺郡にもう一つ酒井村が存在するため、「河口に近い方の酒井村」として口酒井村と改称しました。 また明治22年、町村制が施行されると、東桑津村・西桑津村・中村下河原村小阪田村・岩屋村・口酒井村・森本村が合併し、神津村となりました。この時、口酒井村は神津村の大字口酒井となります。

明治29年(1896)の猪名川水害

 猪名川は、兵庫県川辺郡猪名川町と同県丹波篠山市にまたがる大野山を水源地としています。猪名川の下流域は古来開けた地域であり、早くから荘園などが開発されていました。また、口酒井の田畑に用水を引く九名井の水源が猪名川であることは前章で見てきた通りです。 明治29年8月30日から31日未明にかけての激しい暴風雨のため、猪名川の堤防が各所決壊し、大洪水が起こります。その被害範囲は広大で、伊丹町役場の作成した伊丹町事務報告書には「百数十年来未聞ノ大被害」と記されています。特に被害が甚大であった猪名川右岸の天津地区は、ほぼ壊滅状態となりました。 神津村内においても被害は大きく、各所で堤防などが決壊しました。口酒井では、2カ所の堤防と里道・橋梁が決壊してしまいます。これらの修繕工事は神津村主導で行われました。労働力は基本的に各大字から確保しており、地主による寄付もありましたが、地方税特別補助の他、被害の少なかった地域から寄付金が送られたり、工事の人手をまかなったりと、洪水によって決壊した箇所の修復には膨大な費用と人員が必要でした。 また洪水のもたらした被害はそれだけではありません。多くの家屋が浸水したり、流れ込んだ土砂によって家屋の床下に泥水が蓄積したりと日常生活もままならなくなりました。神津村役場は、衛生面を考え泥水は早急に除去するように指示し、神津村内に炊き出し所を7カ所設けました。 なお、この洪水による川辺郡内での死者は56名、行方不明者は9名でした。 明治29年前後は毎年のように猪名川で洪水が起こっています。この時期、全国的に急速な都市化が進み、保安林の使用規制が弛緩、各地で森林伐採が行われていました。山林の持つ保水能力の低下が、このような洪水の頻発につながったのかもしれません。

水害地地租特別免除願い(口酒井地区有文書)

伊丹に上高地?

 伊丹に私塾三余学寮(さんよがくりょう)や私立伊丹図書館を開設した小林杖吉(じょうきち)が、昭和11年(1936)1月から15年11月にかけて発行した、『郷土研究伊丹公論』というものがあります。 この『郷土研究伊丹公論』第2~4号(昭和11年2~4月)に、「伊丹上高地」と題した随筆が連載されました。執筆者は、伊丹町長や伊丹市長などを歴任した岡田利兵衞氏(第22代)です。氏は、田能(現尼崎市)から桑津橋にかけての猪名川河岸の風景を、長野県松本市の山岳景勝地である「上高地」の景観を想起させるものとして、「伊丹上高地」と表現しています。 大阪毎日新聞社初代写真部長で、山岳家、紀行作家として知られた北尾鐐之助は、昭和4年の『近畿景観』において、猪名川下流の近代の手が加わっていない河川風景を見て、「上高地だと云つてもよい」と記しています。また、同じく北尾の記した『武蔵野物語』(昭和23年)には、「伊丹の有志がつどって同地を『伊丹上高地』と名付けた」とあります。 なお北尾は同著で、「いまでは当時の俤(おもかげ)も、もう無くなつたといふことである」とも述べています。昭和11年に伊丹上高地と称されていた場所は、昭和23年にはすでに人の手が多く加わり、上高地のような悠然とした自然を感じることはできなくなっていたようです。

口酒井での遊牧風景(武内利平氏提供)

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