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伊丹市の歴史
江戸時代の村
北河原村・天津村
北河原村・天津村とは
伊丹郷町の北側、猪名川と駄六川井に挟まれた低湿地にあります。北川原村とも書きます。
慶長国絵図に村名がみえ、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では天津北河原村とあります。京都府立総合資料館蔵正保国絵図は「天津ノ内北河原村」「天津村」と天津村を本郷のように記載していますが、正保郷帳は天津村を枝郷としています。
天津村を含んだ石高は慶長国絵図435石余、摂津一国御改帳325石余、正保郷帳328石余。摂津一国御改帳では幕府領建部与十郎預地、寛永3年(1626)大坂城代阿部正次領となり、慶安元年(1648)幕府領に戻り、同2年大坂定番安部信盛(武蔵岡部藩)領となります。そして延宝6年(1678)分家の旗本安部領となり、明治維新を迎えました。
天保5年(1834)、猪名川対岸の森本村が水不足のため同川から取水溝を深く掘りましたが、北河原村が溝を埋めたことから争論になり、近隣の村が仲裁に入り内済しました。
明治15年(1882)の戸数24・人口108(県布達丙7号より)。
産土神は伊丹郷町の野宮(現猪名野神社)で、天津村とともに神事割を負担していました。元禄16年(1703)神輿が巡行しています。
江戸後期には大和大峯山の行者講があり講田をもっていました。講は昭和16年(1941)に中断しましたが、同32年に再興されました。ほかに八幡宮がありましたが、大正4年(1915)猪名野神社に合祀されています。また、浄土宗来迎寺がある。
(『兵庫県の地名 Ⅰ』(平凡社、2001年)より)