市立伊丹ミュージアム

伊丹市の歴史

江戸時代の村

新田中野 -西野・中野・東野の歴史-

伊丹市域と新田中野の位置

新田中野村とは

 新田中野は伊丹北西部に位置する地域です。芝野(荒れ地)であった場所を寛永6年(1629)から浅野孫左衛門・渡辺新右衛門らが掘り起こして田畑とし、新しい村をつくりました。東野と西野は新田中野村の枝村(枝郷)で、正保2年(1645)頃までに開拓されたと考えられています。それぞれ本村である新田中野村の東と西にあるため、このような名がつけられました。本村の新田中野村は有馬街道に沿い、西野村は武庫川に面しています。江戸時代、同村では用水を得るため、孫左衛門池など5つの池がつくられましたが、現在では埋め立てられています。
 明治22年(1889)、同村は昆陽村・千僧村など9ヶ村と合併して稲野村となりました。昭和15年(1940)には伊丹町と合併し、全国で174番目の市として伊丹市が誕生しました。

新田中野村全図

新田開発と村の発展 昆陽下池から新田中野村へ~浅野孫左衛門らによる新田開発~ 

 江戸時代初期、人口の増加にともなって、食糧の確保のため荒れ地を開墾して田畑にすることが盛んに行われました。新田中野村は伊丹で唯一、大規模な新田開発によってつくられた村です。
 新田中野村ができるまでは、このあたり一帯は昆陽村の土地であり、昆陽下池と呼ばれる池がありました。昆陽下池は、昆陽上池(現在の昆陽池)とともに、奈良時代の高僧行基(ぎょうき)が灌漑のために造ったと言われている池です。この昆陽下池は、慶長13年(1608)に昆陽村・池尻村によって埋め立てられました。このときに埋め立てられた場所の一部が、のちに新田中野村の田地になっていくのです。
寛永6年(1629)、浅野孫左衛門・渡辺新右衛門らが昆陽村地内の芝野(荒地)を田畑にしたいと願い出て認められました。驚いた昆陽村は、芝野の開発は自分たちの村に仰せ付けるよう訴え出ます。しかし、孫左衛門らの申請は年来のものであり、その間昆陽村は何の反応も示さなかったとしてその訴えは退けられました。
 孫左衛門らは各地から50人以上の人々を集め、翌年から開発に取りかかりました。このときに開発されたのが字沢田・野開と呼ばれる場所で、天王寺川と玉田川(現在の天神川)が合流するあたりです。田畑の開墾と並行して池造りも進められ、つくられた5つの池には「孫左衛門池」などそれぞれ開発者の名がつけられました。

伊東祐之による常休寺開山

 常休寺は、伊丹市内でただ一つの黄檗山万福寺派の寺院です。黄檗宗は承応3年(1654)に中国から渡日した隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師によって開立された禅宗です。尼崎藩士の伊東祐之(すけゆき)は隠元隆琦禅師のもとで禅宗の教理を学び、これを厚く信仰し、新田中野村に寺院の建立を希望します。伊東祐之から相談を受けた石鼎道逸(せきていどういつ)和尚は、師匠の木庵性滔(もくあんしょうとう)和尚に寺院開山の勧請を頼み、その結果、天和2年(1682)、法雄山常休寺の開山が決定します。こうして伊東祐之は新田中野村躑躅原(つつじはら)の地で寺院建立に取りかかり、天和3年(1683)には諸堂が建立され、自らは開基檀那となりました。
 開山が決定した天和2年(1682)、新田中野村を開発した浅野孫左衛門の子孫が常休寺建立のために土地を寄進しています。貞享3年(1686)には、代々一向宗であった浅野家が改宗して常休寺の檀那となり、境内を広げ本堂を建立しました。これにともなって、浅野家とつながりのある家や、村の開発に参加した家が檀家となりました。

水をめぐって ー新田中野と5つの池ー

 浅野孫左衛門たちは田畑の開墾を進めると同時に、農業用水を貯水・供給するための池造りも行いました。寛永6年(1629)に5つの池が造られ、それぞれの池には開発者の名が付けられました。「孫左衛門池」、「左近右衛門池」(大小2つ)、「市右衛門池」、「弥次右衛門池」、「次右衛門池」の5つです。
 これらの池の水を田畑にひくために、用水溝も造られました。新田中野村の田畑は、それぞれどの池から水を引くか決められており、用水の引き方にもルールがありました。たとえば、宝暦3年(1753)には新田中野村と安倉村との間で用水の引き方について取り決めがなされています。
このように村民が生活する上で重要な役割を果たす5つ(のち3つ)の池でしたが、その管理は、村内で「池仲間」をつくり、共同で行われていました。
 池や用水にかんして問題が起こったときは、池年寄が掛け合いを行ったり、池普請(池の浚渫などの土木工事)が必要なときは池仲間から人足を出したりしています。孫左衛門池の水を抜く際は、池仲間が池の魚を取って売り払っていたように、池の利用に関しては仲間内で取り決めがなされていました。
 池仲間といった組織を必要とするほど、新田中野において池は重要であり、生活の中に深く根ざした存在であったといえるでしょう。そのため、池の利用についてたびたび問題が起こることもありました。

忍藩阿部氏と新田中野 ー阿部氏の飛び地支配と陣屋ー 

 新田中野村は開発以来幕府領でしたが、貞享3年(1686)から武蔵国忍(おし)藩(現埼玉県)の領主・阿部氏の所領となりました。阿部氏は、寛永16年(1639)に忍藩に入封(にゅうほう)(大名などが自分の与えられた土地に初めて入ること)しました。4代藩主阿部正武の時には、貞享3年(1686)・元禄7年(1694)の2度にわたって摂津国川辺郡に加増を受け、忍藩は武蔵国・上野(こうづけ)国・相模(さがみ)国・摂津国に計10万石を領有しました。その後130年以上忍藩領の時代が続きましたが、文政6年(1823)阿部氏の白河藩への転封にともなって再び幕府領に戻り、明治に至ります。

新田中野村におかれた陣屋 

 阿部氏は、貞享4年(1687)に摂津領支配の拠点として新田中野村に陣屋(じんや)を置きました。陣屋とは領主が支配地に設置した屋敷で、藩の役人が藩領の支配・管理を行なう場所です。藩が村から土地を借りるかたちで陣屋が建てられ、この地の年貢は免除されていました。
 陣屋があった場所やその広さなどについては、詳しく記された史料が少なく正確には分かっていませんが、「字西屋敷浦」にあったと言われています。これは村の中心部で、現在「字西屋敷」といわれている場所にあたり、地元では「殿さん屋敷」と呼ばれていました。陣屋周辺には竹薮があったと言われていますが、字西屋敷辺りにも最近まで竹薮があったそうです。陣屋の敷地には稲荷神社が祀られ、忍藩の役人らの信仰を集めました。

中野稲荷社

東野の園芸業の発展 ー明治時代初めの園芸業の奨励

 東野の園芸業は、江戸時代初めに起源をもつといわれる近隣の旧長尾村地区(現在の伊丹市と宝塚市)の影響もあってか、江戸時代から行われていたようですが、盛んになるのは明治に入ってからのことです。明治7年(1874)、東野の温州苗(みかん)1万本が米国テキサス州に送られ、さらに14年には柑橘苗数10万本がテキサス州に向け送られたといいます。この頃、東野では27戸のうち26戸が植木職の鑑札(認可証)を受け、果樹の苗作りが行われていました。まさに東野は“園芸の村”でした。
 こうした明治初めの東野の園芸発展の功労者が児嶋晴海(せいかい)です。児嶋は土佐藩(高知県)の出身で、草創期の陸軍で活躍しのちに川辺郡初代郡長となる人物です。地方産業の振興を目指した児嶋は、明治4年から東野村内に残されていた未開発の芝野を開発し、園芸業を奨励しました。
 また、初代兵庫県令の神田孝平(たかひら)も園芸業の将来性に着目し、果樹栽培の普及や販売ルートの拡張に取り組んでいます。

東野における園芸業の発展と久保武兵衛

 明治時代中ごろから大正時代にかけて、東野の園芸業はとくに発展していきました。そのなかで注目されるのが、久保武兵衛(ぶへえ)の活動です。武兵衛は、「精苗園(せいびょうえん)」という名で園芸業を営みます。「精苗園」では積極的に新技術を取り入れ、品種改良を行ない、さらに販売ルートを海外にまで拡大していきました。それを可能としたのは、海外出張の経験をもつ農商務省の役人や神戸の実業家などとの武兵衛の幅広い人脈でした。武兵衛の園芸業発展功績が認められ、大正元年、県下における園芸業功労者の「首席」に表彰されています。
 東野の園芸業はこうした武兵衛の活動に加え、「地域ぐるみ」で取り組まれたことで、より一層の発展を遂げていきました。地域の有力者が中心になって、明治の終わり頃には稲野村農会や東野苗木業組合が設立されるなど、地域で園芸業を支える組織が作られました。さらに明治39年(1906)には、東野における移出用苗木に青酸ガス燻蒸(くんじょう)を施すための燻蒸室が、日本で最初に設置されています。

久保武久氏文書

海を渡った日本の桜

 アメリカにも桜の美しさに魅せられた多くの愛好家がいました。その人達によってワシントンのポトマック河畔につくられる公園に日本の桜を植える計画が持ち上がります。
 この計画はアメリカ合衆国タフト大統領夫人、水野総領事、外務大臣小林寿太郎を通じて東京市に伝えられました。それを受け、尾崎行雄東京市長の名で桜を寄贈することになりました。2,000本の桜の苗木は明治42年(1909)年11月24日に横浜を出港し、12月10日シアトルに到着、大陸を横断してワシントンに届けられました。ところが、その後の検査で、苗木に病害虫が多く寄生していることが判明し、焼却処分となってしまいました。
 桜が全て焼却処分されてしまったことを知り、日本の外務省は名誉挽回のため、もう一度桜を贈ることにしました。新たな苗木は静岡の農商務省興津(おきつ)園芸試験場で育てられることになり、総括責任者は試験場の恩田鉄弥園芸部長、実務担当者は熊谷八十三(やそぞう)技師と桑名伊之吉技師が任されました。そして、桜の接ぎ木用の台木苗の購入元として白羽の矢がたったのが、稲野村東野(現在の伊丹市東野)だったのです。東野が、この頃には全国的にも定評のある樹木生産地域になっていたこと、植物の根につく病菌の寄生のおそれが少ない地域であったこと、がその理由だと思われます。

東野から送られた桜の台木苗

 興津園芸試験場から東野の久保武兵衛に依頼が来たのは、明治43年5月ごろだと考えられています。注文を受けた武兵衛は早速、台木づくりに取りかかりました。園芸試験場から訪れた恩田鉄弥園芸部長・熊谷八十三技師・桑名伊之吉技師らの指導のもと、近隣の村人たちも加わった献身的な協力で、各農家で分担育成された台木1万50本は、東野に建てられた日本最初の青酸ガス燻蒸室で完全に殺虫・消毒され、同年12月初めごろ出荷されました。
 興津園芸試験場では、その台木に東京の荒川堤の穂木を接ぎ木した苗木を育て、明治45年3月ワシントンに届けられました。農務省の専門家による検査も無事に通過し、3月27日にポトマック公園にて植樹式が行なわれました。

桜がつないだ縁と絆

 ポトマック公園に植えられた苗木は大切に育てられ、大正2年にはようやく花を咲かせるまでになりました。その後も、洪水の被害や戦争による反日感情の高まりなど数々の危機をも乗り越え、今でもアメリカの人々の目を楽しませています。
 大正4年(1915)・同6年には、アメリカ人に親しまれているハナミズキが桜の返礼として贈られ、日比谷公園や新宿御苑などに植えられました。このとき、台木のふるさと東野の久保武兵衛宅にもハナミズキは2本送られてきたそうです。1本は残念ながら枯れてしまい、もう1本が現在宝塚市山本に植えられているものではないかと言われています。
 近年、アメリカから贈られたハナミズキの原木探しが行われ、東京都立園芸高等学校などに原木が生育していることがわかりました。ワシントンの桜と返礼のハナミズキ、日米友好の歴史と伊丹市東野との関係が明らかになり、伊丹の郷土研究グループを中心に、もう一度ハナミズキの子孫樹を伊丹に植えようという動きにつながりました。そして、平成11年2月20日、東京都立園芸高等学校から譲り受けた子孫樹を荻野小学校に植える植樹式が、在大阪・神戸米国総領事F・マークル氏を迎え執り行われました。桜がつないだ日米の縁と絆を改めて確認することができました。

ポトマック河畔の桜(PIXTA提供)


 

一覧に戻る

ページ上部へ戻る