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伊丹市の歴史
江戸時代の村
千僧 -村からみた伊丹市の誕生と発展ー
千僧とは
江戸時代、千僧村は東の大鹿村(おおじかむら)、西の昆陽村(こやむら)に挟まれ、村内には今池(いまいけ)と籠池(かごいけ)という2つの池を持ち、村の南には田んぼが、北には畑が広がる農村地帯でした。やがて昭和47年(1972)、千僧の地に新しい市役所が建設され、さらにその周囲に博物館や公民館、裁判所、県の支庁などが立ち並ぶようになりました。農村地帯だった千僧は、行政機関や公共施設が集中する町へと大きく変わってきたのです。
ここでは、そうした千僧の移り変わりをご紹介します。
江戸時代の千僧村と人々の暮らし -千僧村の領主ー
江戸時代のはじめ、幕府の領地だった千僧村は、貞享3年(1686)から、関東にあった忍藩(おしはん)の領地になりました。しかし、江戸時代後期の文政6年(1823)、千僧村は再び幕府領に戻りました。
なお、ふつうの幕府領の村は、幕府の代官が治めます。しかし、中には代官が統治するのではなく、近くの藩に村の統治を任せてしまう場合がありました。これを「御預所」(おあずかりしょ)といいます。幕府領に戻った千僧村は一時期、この御預所になっていました。その千僧村の統治は、高槻藩(たかつきはん)が担当したことが知られています。
千僧村の農業と用水
農業で、もっとも重要なものは水ですが、江戸時代の千僧村は複数の水源から、農業用水を得ていました。水源となったのは、まず今池と籠池です。また、千僧村では隣の大鹿村にある尼ケ池(あまがいけ)からも水を引いていました。その他に、千僧村では、武庫川から水を引く、「昆陽井」(こやゆ)と呼ばれる用水路からも水を得ていたと考えられています。
これらの水源の多くは、千僧村だけでなく、周りの村々も利用していました。そのため、村々の利害がぶつかり合い、水をめぐって対立が起こることもありました。しかし千僧村を含む村々は、相手の村と交渉を行い、妥協点をさがし、和解に至りました。また、千僧村と他の村が対立した時は、別の村が仲裁に入ることもありました。時に対立することはあっても、千僧村や周りの村々は、それを乗り越え協力して水を利用していたのです。
千僧村の神社と寺院
千僧村には、二つの神社がありました、天神社(てんじんじゃ)と熊野権現社(くまのごんげんしゃ)です。天神社は「大已貴尊」(おおなむちのみこと)、すなわち大国主命(おおくにぬしのみことを祀る神社で、現在も秋祭りでは「太鼓」と呼ばれる地車(だんじり)が廻ることで知られています。千僧の熊野権現社は「猪名神社」とも呼ばれており、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を祭る神社でしたが、明治43年(1910)に天神社に合祀されました。
また、同村には寺院も二つもありました。安楽院と西善寺です。安楽寺は行基が開いたという伝承を持ち、「願成就寺」とも呼ばれる真言宗の寺院です。江戸時代の本末制度では、寺院は本寺となる寺を定め、その末寺になることになっていましたが、安楽院は京都の仁和寺を本寺としていました。一方、西善寺は浄土真宗の寺院で、京都の西光寺を本寺としていました。二つの寺院とも、現在に至るまで千僧の地で人々の信仰を支えています。
明治~昭和時代の千僧と人々の暮らし -千僧村から稲野村大字千僧へー
幕末の千僧村は、高槻藩の御預所でしたが、明治維新の際は、明治政府によって千僧村はそのまま高槻藩に預けられました。しかし、それから2年が過ぎて、明治3年(1870)になると、明治政府は各地の藩が伊丹近辺に持っていた領地を取り上げ、これを兵庫県に移す政策を進めていきました。それに合わせて、同年12月、高槻藩に任されていた伊丹近辺の御預所も、兵庫県に移されることになったのです。これ以降、千僧村は兵庫県下の1村となりました。
時を経て、明治21年(1888)頃から明治政府は、地方制度の改革に取り組み、各地で町村合併を進めました。これにより、千僧村も昆陽村、新田中野村(しんでんなかのむら)、寺本村、池尻村、山田村、堀池村、野間村、南野村、御願塚村(ごがづかむら)と合併し、これら10ヵ村がまとまってできた大きな村「稲野村」(いなのむら)の一部となったのです。この後、合併以前の村は「大字」(おおあざ)という行政区画になったため、千僧村は「稲野村大字千僧」と呼ばれるようになりました。
伊丹市の誕生と市役所
昭和11年(1936)頃より、千僧を含む稲野村と、伊丹町を合併しようとする計画が動き始めました。その背景には、都市化の動きがありました。千僧のように、江戸時代以来、田畑の広がる農村地帯だった稲野村にも、この時期、徐々に住宅地や工場が進出する動きがあったことから、既に同じ状況にあった伊丹町と合併しようとする動きが出てきたのです。やがて昭和14年、伊丹町から稲野村に正式に合併が申し入れられ、翌15年11月10日、稲野村と伊丹町は合併し、伊丹市となりました。
この時、市役所は伊丹市字中ノ町(現、伊丹市中央3丁目)、現在の阪急伊丹駅とJR伊丹駅を結んだ中間点付近にありました。この市役所は、昭和29年(1954)に火災で焼失しましたが、翌年再建され、戦後の伊丹市の発展を支えてきました。しかし、昭和40年代に入ると、この市役所も建物が古く、手狭になり、いくつかの部署が離れて存在するといった不便さが目立つようになってきました。この問題を打開するため、もっと広い場所に新しい市役所を建設する計画が持ち上がりました。その新しい市役所の建設場所として選ばれたのが、千僧だったのです。
今の千僧へ
昭和47年(1972)7月31日、千僧の地に新しい市役所が誕生しました。その直前の7月23日には、新市役所の東隣りに、博物館(現市立伊丹ミュージアム)と図書館(後に、宮ノ前へ移転)が開館し、公民館も建設中でした。さらに、市役所の南には、税務署、法務局(後に移転)、裁判所、警察署、兵庫県伊丹庁舎の建設も予定されていました。こうして千僧は、この昭和47年を境にして、行政機関や公共施設が立ち並ぶ、現在の姿へと大きく変わっていったのです。
江戸時代、現在の阪急伊丹駅からJR伊丹駅にかけての地域には、伊丹郷町と呼ばれる大きな町がありました。酒造業によって発展を遂げたこの町は、やがて明治22年(1889)に、近くの村々と合併して伊丹町となりました。一方、その西にあった千僧村は、江戸時代以来、田畑に囲まれた農村地帯でした。その千僧村は、明治22年に稲野村の一部となり、昭和15年(1940)には稲野村と伊丹町との合併によって、伊丹市が誕生しました。伊丹市は千僧のような農村地帯の稲野村と、町として繁栄していた伊丹町という、二つの性格を合わせ持って生まれたのです。そして、昭和47年(1972)、千僧の地には新しい市役所や博物館が建設され、やがて千僧は、行政機関や公共施設が立ち並ぶ「町」となりました。
伊丹郷町が、もとから町として発展していたのに対し、千僧は農村地帯から官公庁(かんこうちょう)の集中する町へと移り変わってきた歴史を持ちます。もとから町であり、現在もマンションや商業施設が並ぶ伊丹郷町が、伊丹市の発展の一つの象徴であるとすれば、農村から官公庁の並ぶ町へと変わってきた千僧は、農村と町の合併によって誕生した伊丹市発展の、もう一つの象徴であるといえるのです。