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伊丹市の歴史
江戸時代の村
小坂田 ー空港に消えた村ー
小坂田とは
小坂田村は、現在の市域東部にあたる場所にあった村ですが、この村は昭和16年(1941)に、大阪第2飛行場(大阪国際空港の前身)の拡張に伴って解村しています。住民の方が各地に移り、今は残っていない村ですが、その小坂田村に関わる数多くの古文書や絵図が、池田市に移転した正智寺に受け継がれています。正智寺で大切に保管されてきたこれらの古文書や絵図によって、今から74年前、「空港に消えた」小坂田村について、多くのことを知ることができるのです。
そうした貴重な歴史資料からわかる小坂田村の歴史を紹介します。
「諸事覚日記」について
正智寺が所蔵する古文書の中で、小坂田村に関わる最も代表的な文書といえるのが「諸事覚日記」(しょじおぼえにっき)です。これは、幕末に小坂田村で庄屋を務めた、嘉六(かろく)という人物が記した日記で、村内の出来事や他村との交渉事、幕府が出した触(ふれ)、或いは幕末に全国で起こった事件や災害(天保の飢饉、大塩平八郎の乱、ペリーの来航など)の情報までが、細かく書き留められています。
特に、この日記に各地の事件や災害が記述されていることは、嘉六が毎日、小坂田村で暮らしながらも、今、日本で何が起こっているのかをしっかりと理解し、世間の動きを把握していたことを示します。
江戸時代の小坂田村と旗本服部家
江戸時代の前期(寛文2年・1662)以降、小坂田村は幕府や藩の領地ではなく、幕府に仕える旗本(はたもと)服部(はっとり)家の領地となりました。服部家については、大番(おおばん)や納戸番(なんどばん)という幕府の役職を務めた、有力な旗本だったことが知られています。
この服部家では、元禄7年(1694)に4代目の服部貞治(さだはる)から、5代目の服部常方(つねかた)に当主が変わりました。その際、領地である小坂田村の大部分(300石)を、常方の弟服部貞仲(さだなか)が相続しました。これ以降、服部常方と服部貞仲の二人が小坂田村の領主となった訳ですが、小坂田村にとっては300石を受け継いだ貞仲の方が、関わりの深い重要な領主となりました。
御用状について
領主の服部家は、幕府の役職で大坂城や京都の二条城にいることもありましたが、基本的には江戸で暮らしていました。その服部家は、「御用状」と呼ばれる書状を使って、小坂田村を治めていたことが解明されています。
江戸にいる服部家は、自分の家臣を小坂田村に置いて支配したのではなく、様々な指示を記した「御用状」を小坂田村の庄屋に送って、村を運営させていたのです。
小坂田村の農業と生活
農業で、一番大切なのは用水の確保ですが、小坂田村では村の中にある「芦井」(あしゆ)や、北東にある今在家村の「弁慶淵」などの湧き水から、水を引いていました。その小坂田村の農業については、米の他に木綿やたばこの栽培も、盛んに行われていたことが知られています。
隣の村から農業用水を得ていることにみられるように、小坂田村の村人たちの暮らしは、ふだんから周囲の村々と深い関わりをもっていました。時には、水などをめぐって対立が起こることもあり、村々は対立と和解を繰り返しながら、お互いの暮らしを維持していました。
また、小坂田村には正智寺と正福寺という二つの浄土真宗寺院と、氏神として伊居多(いこた)神社があり、人々の信仰を支えていました。
明治初期の小坂田村とその変化
慶応4年(1868)正月、新政府は鳥羽・伏見の戦いに勝ち、近畿地方を掌握しましたが、この地方には小坂田村をはじめ、多くの旗本領がありました。新政府は、自らに従った旗本には、領地をそのまま治めることを認め、新政府に背いた旗本からは、領地を没収しました。
小坂田村の領主である服部家は、新政府に従ったため、小坂田村は服部家の領地のまま、明治時代に入りました。やがて、明治2年(1869)12月になり、新政府は旗本の領地を全て取り上げることを決定し、小坂田村は兵庫県下の一村となりました。
神津村の一地区へ
明治21年(1888)以降、明治政府は地方制度の改革に取り組み、全国で町村合併が進みました。それを受けて翌明治22年、小坂田村も周囲の村々(下河原村・中村・東桑津村・西桑津村・森本村・口酒井村・岩屋村)と合併し、神津村となりました。
大阪第2飛行場の建設
昭和初期、大阪近辺に二つの飛行場を建設する計画が持ち上がりました。大和川の河口に飛行場(大阪第1飛行場)を建設し、合わせてその予備飛行場(大阪第2飛行場)を、神津村に建設するという内容です。
この予備飛行場=大阪第2飛行場の建設工事により、神津村内の小阪田では計4軒が移転することになりましたが、昭和14年(1939)に、この大阪第2飛行場は完成しました。なお、大和川河口で建設されていた大阪第1飛行場の方は、室戸台風の影響などもあり、結局完成には至りませんでした。
大阪第2飛行場の拡張と小阪田の解村
こうして建設された大阪第2飛行場ですが、完成後すぐに飛行場を拡張する計画が立てられました(拡張後の名称は「阪神国際飛行場」)。建設時と違いこの拡張工事では、小阪田の全ての住民(52軒)に立ち退きが求められることになりました。
太平洋戦争の勃発が迫り、住民からの土地買い上げ交渉には軍の将校があたるという情勢下、昭和16年(1941)に、小阪田の人々は解村式を行い、各地へ移転していきました。
大阪国際空港へ
阪神国際飛行場は終戦とともにアメリカ軍に接収され、「イタミエアベース」と呼ばれていましたが、昭和33年(1958)になって返還されることになりました。同年3月18日、返還式が開催され、飛行場の名は「大阪空港」と改められました。(翌昭和34年には、現在の「大阪国際空港」に改称)。