市立伊丹ミュージアム

伊丹市の歴史

江戸時代の村

大鹿村―領主・街道・酒造り―

伊丹市域と大鹿村の位置

大鹿村とは

 大鹿村は、江戸時代初期には幕府の直轄領でした。その後寛文2年(1662)に、麻田村(現豊中市)に陣屋(領地にある大名の屋敷、城に準ずるもの)を持つ青木氏の領地となりました。以後、大鹿村は明治に至るまで,麻田藩青木氏の領地でした。
 また、大鹿村の「宗門改帳」を見てみると、村人はみな大鹿の妙宣寺の檀那です。かつての大鹿村は「皆法華(かいほっけ)」といわれていましたが、その一端がうかがえます。
 なお宗門改帳とは、江戸時代のキリスト教禁止政策のもとで行なわれた宗門改制度によって作られるようになった帳面です。村人たちの宗派や家族構成が記されています。移住や生死について記録することになっており、現在の「戸籍」に近い帳面です。

大鹿村に残る文書類

大鹿村と大坂冬の陣

 慶長19年(1614)11月3日、大坂冬の陣のまっただなかに大鹿村あての禁制がだされています。内容は軍勢その他が村に迷惑をかけることを禁じたもので,戦争という非常時において,いざというときに村を守ってくれる性格のものです。
 禁制をだした「松平武蔵守」は、大坂冬の陣の際尼崎に駐留していた姫路藩主池田利隆であることがわかっています。

大鹿村の年貢と「下札」

 「下札」とは、領主(大鹿村の場合麻田藩青木氏)から領地の村に対し、年貢を納めることを命じた文書のことです。
 江戸時代では,領主から村(庄屋・百姓中)に対し、村全体で年貢として何石何斗何升何合…を納めよ、と文書で通達がされていました。
 「下札」を受け取った村では、庄屋が村内での割り当てを決定します(これを免割といいます)。村の中でどのように割り当てたかが記されているのが,「免割覚」です。 
 「下札」は、その年の年貢の納入が完了した後も村で大切に保管されました。それを後世の村人たちが丹念に調べ上げ、領主から不当に高い年貢がかけられた時に抵抗する根拠としたこともありました。

村での酒造業

 後世の記録によると、江戸時代前期の寛文年間(1661-72)に大鹿村での酒造りが始まり、宝永・正徳年間(1704-15)に最盛期を迎えました。当時16、7軒の酒造家がいたそうです。
 元禄14年(1701)の『摂陽群談』という書物によると、大鹿の酒は山のきれいな水を汲んでつくるために大変香りが良かったようです。
 江戸時代では酒をつくる量は領主から制限されており、酒造家は運上銀(いまでいう営業税に近いもの)を納めることが義務づけられていました。これらに関する記録が大鹿村に残されています。

大鹿村酒場道具帳写

摂泉十二郷酒造仲間

 大鹿村は天明年間(1781-88)に、摂泉十二郷(せっせんじゅうにごう)という摂津・和泉の2ヵ国にわたる広域的な酒造仲間に組み入れられました。
 しかし、享保末年(1736)ごろから不繁盛となり、酒造の家数がしだいに減っていったといいます。

街道が交差する村

古絵図をみると、大鹿村が西国街道沿いの村であったことがわかります。また、村の西部には、伊丹郷町から有馬や中山寺へ通じる有馬道(中山道)が通っていました。
 2つの街道が大鹿村で交差しており、交通における大鹿村の重要度は高かったといえます。
 大鹿村に伝えられた資料の中で目立つものの一つに、捨て子に関する記録があります。大鹿村が街道沿いだったため、旅人による捨て子が多かったのかもしれません。
 また、江戸時代は、旅先で死んだり、病気や怪我をなどで自力では故郷に帰ることが不可能になった者を故郷に送り返すルールが出来上がっていました。街道筋である大鹿村には、こういった道中のできごとに関する文書がいくつも残されています。

差入申一札之事

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