市立伊丹ミュージアム

伊丹市の歴史

江戸時代の村

鴻池村

伊丹市域と鴻池村の位置

鴻池村とは

 鴻池村は、武庫川支流の天神川と天王寺川に挟まれた村で、新田中野村の北に位置しています。文禄3年(1594)9月、荻野村・荒牧村と同時に、宮本藤左衛門尉の検地を受けました。この段階では村切されておらず、石高は荒牧を本郷とし荻野と3ヵ村合わせて1782石余でした。寛永12年(1635)頃の状況を記した尼崎藩戸田氏知行目録(大垣藩地方雑記)でも3ヵ村が一括されていますが、正保国絵図(京都府立総合資料館蔵)では分離され、髙420石余となっており、この頃に村切りが完了したと考えられます。摂津一国御改帳では幕府領大和小泉藩領地ですが、元和3年尼崎藩領となりそのまま明治維新を迎えます。
 用水は、天王寺川から取水する新池・大池(現黒池)・西之池・前之池、玉田川筋(天神川)から取水する玉田之池などがありました。享保8年(1723)に切畑村(現宝塚市)が長尾山の開発を願い出て山子の村々と関係が悪化し、同13年鴻池・荒牧、川面・安倉(現宝塚市)の各村が長尾山の松木を伐り切畑村が提訴しました。隣接する小浜宿(現同上)は規模の小さい宿駅で、慶長19年(1614)、鴻池など6ヵ村が御用伝馬を手伝う代りに駄賃稼をすることを申合せました。
 鴻池家初代の新右衛門幸元は清酒製造に成功し、慶長4年初めて酒を馬の背に乗せて江戸に送ったといいます(寛政6年「新右衛門返答書」灘酒沿革史、鴻池稲荷祠碑では翌年)。幸元は大坂久宝寺町(現大阪市中央区)に店を構え、寛永16年、八男善右衛門正成が今橋(現同上)の鴻池本家の祖となりました。幸元は鴻池村の山中邸に稲荷社を勧講す、宝暦13年(1763)の台風で祠が倒れたため、天明4年(1784)、懐徳堂で活躍した、儒学者中井履軒の撰文で鴻池稲荷祠碑を建立しました。
 また、鴻池村の清右衛門は古来800石の酒株をもっていましたが400石まで減石し、正徳4年(1714)、すべて伊丹郷町米屋町六郎左衛門に譲っています。享和3年(1803)時点では酒造家2軒、株髙2770石でした。
 また、大工組があり、寛永2年の大工は4人。同12年50石の大工髙が認められ、百姓役が免除されました。同18年には橘朝臣松原三右衛門貞吉が酒井村の産土神春日大明神の本殿建立を行い、現在、市域に現存する建立年代の明らかな寺社建築では最古のものとなっています。大工組は、宝永4年(1707)は昆陽組に属していましたが、宝暦8年から明和3年(1766)までは鴻池組が確認でき、同2年の鴻池組支配の大工は108人でした。以降は富松村(現尼崎市)が組頭を勤めたため富松組と称しましたが、江戸後期は鴻池組が復活しています。
 宮座は左座・右座があり、左座は24軒で荒牧村東政所から移った家などで構成し、右座は33軒で荒牧村本郷や西政所から移ってきた家などで構成しました。ほかに仙園山がありました。仙園山は慈眼寺の前身と思われます。
 産土神は鴻池神社で、本殿は一間社流造・柿葺。17世紀初期の優品とされ、県の指定文化財となりました。元禄6年(1693)、拝殿が大破し、再建しています。江戸時代は蔵王権現と号し、明治3年(1870)安閑天皇神社と改称、さらに大正7年(1918)、八幡社を合祀して鴻池神社と改称します。曹洞宗慈眼寺は寺伝によれば、赤松則村の祈祷所で、かつては仙園寺といい真言宗でしたが、摂津池田村の大広寺から桂昌という僧が入り、慈眼寺と改め、曹洞宗になったといいます。
 境内には、安閑天皇神社に合祀された八幡社があり、同寺の鎮守神でした。本尊の木造釈迦如来坐像は胎内に建久6年(1195)の墨書銘があり、慶派仏師の作とみられ、国の重要文化財に指定されています。また、ほかに天正2年(1574)8月24日銘・慶長17年銘の一石五輪塔もあります。

(『兵庫県の地名 Ⅰ』(平凡社、2001年)より)

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