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伊丹市の歴史
江戸時代の村
伊丹郷町 ―猪名野神社、おまつり日和―
伊丹郷町とは
伊丹郷町は、伊丹町(村)・大広寺村・北少路村・昆陽口村・北中少路村・南中少路村・円正寺村・外城村・高畑村・新野田村・古野田村・植松村・下市場村・上外崎村・外崎村という15か村によって構成されていました。
伊丹郷町が領主・近衞家の庇護のもと、主に酒造業によって栄えたことは、広く知られていることです。伊丹の酒は「丹醸」(たんじょう)と呼ばれ、樽廻船(たるかいせん)で江戸へと送られました。
伊丹郷町が近衞家領となったのは寛文元年(1661)のことです。この年から、酒造家を束ねていた酒家年行事が、近衞家のもとで町政を取り仕切りました。元禄10年(1697)には24家が帯刀を許され、町政を担う者は「惣宿老」(そうしゅくろう)と呼ばれるようになりました。
伊丹郷町の領主・近衞家
寛文元年(1661)、伊丹郷町の内11か村(伊丹町(村)・大広寺村・北中少路村・南中少路村・円正寺村・外城村・高畑村・新野田村・古野田村・植松村・外崎村)が近衞家領となります。幕府は、近衞家領の五カ庄村(現京都府宇治市)を隠元(いんげん)禅師開基である黄檗宗(おうばくしゅう)万福寺(まんぷくじ)の寺地とするため公収し、その替地として、近衞家に伊丹郷町を与えたのです。
延宝3年(1675)、近衞家の願いにより、五カ庄村のうち岡屋村が近衞家領へ回復し、伊丹郷町のうち伊丹町・円正寺村・古野田村・植松村以外は公収され、直領となります。しかしその後、近衞家が次第に財政的に苦しくなり、幕府は正徳元年(1711)に1000石余の加増地を与えます。このときに、直領であった北少路村・昆陽口村・北中少路村・南中少路村・外城村・高畑村・新野田村・外崎村も近衞家領となり、結局伊丹郷町のほとんどが近衞家領のまま、明治を迎えました。
なお、大広寺村・下市場村・上外崎村の3か村は正徳元年時点において阿部氏(武蔵国埼玉郡忍藩)領であり、その後、文政6年(1823)に直領となって明治に至ります。
町政を担った酒造家
伊丹郷町の内、伊丹町(村)は寛文元年(1661)以前から町人による自治が行われていました。寛文元年(1661)に伊丹郷町の大半が近衞家領となったことを契機に、酒家年行事24家が伊丹郷町の町政を担うようになりました。
伊丹郷町の町政は、元禄10年(1697)に酒家年行事24人が「惣宿老」の称号を与えられ、また帯刀を許されたことで、明確に制度化されることとなります。惣宿老は伊丹郷町の町村全般に関する一般政務や酒家仲間に関する政務、郷町で起こった訴訟の処理等を職務としました。惣宿老以下の役人は、紺屋町(現在のシティホテル周辺)にあった近衞家会所と呼ばれる役場へ出勤しました。
しかし、酒造家の盛衰に伴い、享保年間(1716~36)を過ぎたころから、惣宿老の中でも没落する家がありました。そして明和年間(1764~72)に至ると、惣宿老を担う家は八尾家(紙屋)と小西家の2家のみとなってしまいました。この時期、近衞家により職務負担を軽減する措置がとられますが、両家から提出された書簡の中には、惣宿老を勤めながら酒造業を経営することに対する不安を露わにしたものもあり、惣宿老の職務の大変さがうかがえます。そのため、惣宿老の業務を援助する加勢役(かせやく)が酒家年行事から新たに任じられました。
また、伊丹郷町の財政事務は近衞家から任命を受けた「御金方」(おかねがた)が担いました。御金方は近衞家への年貢上納や御用金納入、年貢銀・冥加銀を貸し付けたり大名貸として運用したりして利息収入を上げるなど、金銭関係全般を取り仕切りました。はじめは惣宿老が兼任しましたが、寛政元年(1789)からは、酒家年行事が兼任することもあったようです。
「野宮」と呼ばれた猪名野神社
伊丹郷町の氏神は猪名野神社です。猪名野神社は、荒木村重が築いた有岡城の北端「きしの砦」(国指定史跡)の跡地にあります。江戸時代、「猪名野」にある「宮」から、「野宮(ののみや)」と称されました。また、江戸時代は牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていたため、「天王宮」「牛頭天王社」などとも呼ばれました。
創建年代は不詳ですが、社記には「宇多法皇の勅願に依りて延喜四甲子年醍醐聖宝尊師がこの地に勧請せしものなりと云ふ」とあります。同記によれば、久安6年(1150)、源八郎為朝がこの地に逗留し、同社を再興しましたが、天正6・7年(1578・1579)の荒木村重と織田信長の戦いの際に荒廃してしまいました。その後、慶長6年(1601)に豊臣秀頼の命によって再興したといいます。この由緒は、門前にある金剛院(こんごういん、野宮寺)と同様です。神仏習合であった江戸時代において、野宮は金剛院と一体であり、同院は別当として神社の管理を行っていため、その縁起を転用したのだと考えられます。
また、棟札によれば、貞享2年(1685)に伊丹郷町の領主・近衞基凞(もとひろ)によって、本殿並び玉垣が再建されました。
境内には酒造家に寄進された石燈籠が数多く並び、近衞家による社殿や扁額、宝物の寄進なども見られ、伊丹郷町の氏神としての特色が感じられます。
神仏分離により、野宮は金剛院から独立し、明治2年(1869)に猪名野神社と改名しました。
酒造家の信仰を集めた野宮
現在、猪名野神社の境内には、98基もの石燈籠があります。その多くは、江戸時代に酒造家によって寄進されました。現存する石燈籠で一番古いものは、寛永20年(1643)に、酒造家の鹿嶋(升屋)宗左衛門によって寄進されたもので、参道西側にあります。
地方の神社で、これほどまとまった数の石燈籠が存在するのは珍しく、江戸時代における伊丹での酒造業の隆盛ぶりがうかがえます。また、酒造家による寄進は石燈籠のみならず、社殿の建立及び修復のための寄付も多く行われていました。
伊丹郷町において財政を担当していた御金方が野宮への寄付を取り仕切ることもありました。野宮が伊丹郷町の氏神として、いかに重要な位置を占めていたのかがうかがえます。
春日・松尾・住吉の三社
社記によれば、野宮の境内には、少なくとも元禄5年(1692)には春日社及び住吉社が、また文禄5年(1596)には松尾社がそれぞれ鎮座していたと言います。江戸時代前期において、この三社は独立した存在でした。
ⅰ 春日社
春日大社(現奈良市)より分社されました。春日大社はその創建より藤原氏の氏社として発展してきました。藤原氏ははじめ南家(なんけ)・北家(ほっけ)・式家(しきけ)・京家(きょうけ)の家筋に分けられ、中でも藤原北家は、天皇の補佐である摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)を世職(せしょく、世襲の官職)としました。これを摂関家と言います。摂関家は、鎌倉時代には北家から成立した近衞家・九条家・二条家・一条家・鷹司(たかつかさ)家に限定されるようになり、五摂家(ごせっけ)と称されましたが、近衞家は五摂家の筆頭でありました。
ⅱ 松尾社
現京都市にある松尾大社より分社されました。松尾神は酒の神様として知られ、酒造関係者に篤く信仰されています。
ⅲ 住吉社
現大阪市にある住吉大社より分社されました。住吉神は海上交通守護として広く知られています。江戸時代、住吉大社は、大坂廻船問屋(かいせんどんや)を中心に全国各種業界の信仰を集めていました。
さて、文政10年(1827)、近衞忠凞(ただひろ)の厳命により、春日・松尾・住吉の三社を相殿(あいどの)として一宇が建立されます。文政年間(1818~31)といえば、近衞家による酒造業の積極策もあり、伊丹が江戸積酒造業で最も栄えたとされる時期です。江戸積酒造業では、多くの伊丹の酒が樽廻船で江戸へと送られました。
近衞家―藤原氏の氏社である春日社と、酒の神様を祀る松尾社、そして、海上交通守護の住吉社。忠凞が春日・松尾・住吉の三社を一つにして、郷町の氏神である野宮の境内に新しく社を建立したのは、伊丹における江戸積酒造業のますますの発展を願って、ひいては郷町と近衞家の隆盛を願ってのことだったのではないでしょうか。
この三社は現在も、猪名野神社の摂社の一つである新宮神社として鎮座しています。建立の棟札には「投財施主 伊丹酒屋中」と見え、酒造家の出資であることがわかります。江戸時代、野宮が近衞家及び酒造家により深く信仰されていたことを示す、貴重な社です。
野宮祭礼―「お渡り」
野宮は元来猪名寺(いなでら)村(現尼崎市)に鎮座しており、延喜4年(904)に伊丹へ勧請(かんじょう)されたといいます。
元禄15年(1702)、伊丹の酒造家である油屋勘四郎(1660~1740。本名上島治房。また上島青人(あおんど)と称し、俳諧師としても活躍。同じく伊丹の俳諧師である上島鬼貫(おにつら)の一族)により、野宮に神輿が寄進されました。その翌年の8月23日、野宮から神輿が出向し、野宮がもとあった場所―猪名寺村の御旅所(おたびしょ)へと渡御します。その途中で、下市場や北河原などの各村へも巡行し、神酒(みき)等が奉納されました。これが、「お渡り」の始まりです。
宝永2年(1705)からは、太鼓やお迎え提灯・猿田彦・町役人など、行列の出し物が定められます。また正徳元年(1711)になると、伊丹町以下の村々がだんじりなどの引き物を出しました。そして安永元年(1772)には、近衞家より鉾が奉納されており、行列は一層華やかになっていきます。
しかし時代が降ると、交通の関係や世情により、途切れ途切れにしか行われなくなってしまい、行列を立てて御旅所まで巡行するのは、昭和38年(1963)が最後となりました。なお、明治以降のお渡りは、8月23日を新暦に直した10月14日に行われていました。
現在では、10月14日に近い日曜日に猪名野神社秋季例大祭が行われ、担ぎ手が確保できる年には神輿も出ますが、元宮まで巡行することはなくなってしまいました。各町村が出していただんじりや布団太鼓も、いまは宮ノ前地区の布団太鼓のみとなっていますが、子供たちが担ぐ「こども神輿」は、現在でも多くの地区が出しています。