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伊丹市の歴史
江戸時代の村
御願塚 ー四人の殿様と村の暮らしー
御願塚とは
御願塚(ごがづか)地区は市域の南部に位置しています。
同地区は御願塚古墳があることで有名ですが、江戸時代には御願塚村という村がありました。この御願塚村には、ある特徴がありました。同村には一つの村であるにも関わらず、四人もの殿様に支配されていたのです。このような状態を相給(あいきゅう)といいますが、御願塚村の人々は、四人の殿様の下で農業を営み、年貢を納め、農業用水などをめぐって周りの村々と交渉し、時に起こる事件にも対応しながら、日々の生活を送っていたのです。
そのような御願塚村の歴史と、現代にいたるまでの移り変わりを紹介します。
「殿様の時代」の御願塚村 ―江戸時代―「相給」の村
江戸時代の御願塚村の一番の特徴は「相給」の村だったという点です。江戸時代の村には、それぞれ大名や旗本など、領主がいましたが、中には一つの村に二人以上の領主がいる場合がありました。このような状態を相給といいます。
江戸時代半ばの御願塚村では、全部で804石余りの石高を持つ同村の内、181石余りは、大名の阿部氏(武蔵国忍藩(おしはん))の領地であり、512石余りは旗本の岡野氏の領地、80石は旗本の木村氏の領地、30石はもう一人の木村氏(旗本)の領地をなっていました。御願塚村という804石余りの村を、四人の領主がそれぞれ181石余り・512石余り・80石・30石に分けて領有していたのです。なお、大名のことを「殿様」といいますが、江戸時代には旗本のことも殿様と呼びました。したがって、江戸時代半ばの御願塚村は、一つの村にも関わらず、四人もの殿様がいたことになります。
御願塚村と周囲の村々
御願塚村では、昆陽井(こやゆ)という用水路を使って、農業用水を確保していました。昆陽井は、武庫川から水を取り込み、昆陽村(こやむら)など複数の村を通って御願塚村に至る用水路です。複数の村が、その水を利用していたため、水不足の時などは、村々の利害が衝突することもありました。しかし、御願塚村を始めとする村々は、何とか水の配分を増やしてくれるよう、用水路の上流の村と交渉する努力を怠ることはありませんでした。
御願塚村事件簿
御願塚村は、ふだんは平和な村でしたが、江戸時代の間には、事件が起こることもありました。
寛政10年(1798)には村人の惣七が、家の裏で捨子を見つけるという出来事がありました。惣七はすぐに庄屋たちに知らせ、村では急いでその子どもを保護し、大坂町奉行所(おおさかまちぶぎょうしょ)に届を出しています。
また、文化7年(1810)には、又兵衛の家に盗賊が侵入し、着物やかんざしを盗むという事件が起こりました。この盗賊は大坂町奉行所によって召し捕られ、事件は無事に解決しました。盗まれた品も、大坂町奉行所から又兵衛に返還されています。
御願塚村の神社とお寺
御願塚村には、天照大神を祀る北の宮(北神社)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る須佐男(すさのお)神社、御願塚古墳の上に建つ南神社という、三つの神社がありました(かつては、北の宮は天照太神宮、須佐男神社は牛頭天王社、南神社は孝謙天王社や孝徳神社と呼ばれていました)。
この内、須佐男神社については、江戸時代にも毎年10月ににぎやかな祭りが行われ、村人が3~400人も参拝したと伝わっています。南神社については、もともと孝謙天皇を祀っていると言い伝えられていたところ、江戸時代後期に大坂町奉行所の問い合わせを受けた際、祭神は孝徳天皇だったことが判明し、その後は孝徳神社と呼ばれるようになったといわれています。
一方、御願塚村のお寺には、浄土宗の西光寺(さいこうじ)があります。なお、江戸時代の人々は、必ずどこかの寺の檀家(だんか)となることを義務づけられていました。西光寺があったのは、御願塚村の中の岡野氏の領地でしたが、岡野氏の領地の人々だけでなく、阿部氏など御願塚村内の領地の人々も、西光寺の檀家となっていました。また御願塚村には、寺本村にある一乗院(いちじょういん)や、伊丹郷町(いたみごうちょう)の法巖寺(ほうがんじ)の檀家もありました。お寺と檀家の関係からも、御願塚村の人々が、周囲の村々と広く交流していたことがわかります。
「変化の時代」の御願塚 ―明治~昭和時代― 変わる社会と御願塚村
明治時代に入ると、新政府は新しい国を造るため、次々と改革を実施しました。御願塚村の人々の暮らしに大きな影響を与えたものには、地租改正(ちそかいせい)という税制度の改革や、徴兵制度(ちょうへいせいど)の開始があります。前者によって、御願塚村でも税は、村として納めていた年貢米から、村民個人が納入する税金へと変わりました。また、徴兵制度の開始によって、御願塚村の人々も徴兵検査を受けるようになりました。
稲野村の御願塚と稲野住宅地の誕生
明治22年(1889)は、全国的に大規模な町村合併が進められた年ですが、この年、御願塚村も周りの千僧村(せんぞむら)、昆陽村、新田中野村(しんでんなかのむら)、寺本村、池尻村、山田村、堀池村、野間村、南野村と合併し、これら10か村が集まってできた、稲野村(いなのむら)の一部となりました。これ以降、御願塚村は、「稲野村大字(おおあざ)御願塚」と呼ばれるようになります。
大正9年(1920)、御願塚の頭部を鉄道が通るようになりました。阪神急行電鉄の伊丹線(現在の阪急電車伊丹線)です。翌10年、御願塚にこの線の駅が設(もう)けられました。猪名野停留所(いなのていりゅうじょ、現在の阪急稲野駅)です。また、大正時代末、阪神急行は稲野停留所付近に、新たな住宅地を開発しました。御願塚の南部にひろがる稲野住宅地はこうして誕生したのです。
「戦争の時代」の御願塚
太平洋戦争は、御願塚の人々にも大きな影響をもたらしました。特に、生活物資の不足は人々を苦しめました。配給制度自体は、既に太平洋戦争前から敷かれつつありましたが、太平洋戦争の勃発によって、ますます厳しくなってゆきました。御願塚でも、米は勿論、砂糖、玉子、食パンといった食品類から、火を起こすための練炭や木炭などまで、家庭で日常的に使う品々を自由に購入することは許されず、配給を待たなければならなかったのです。
今の時代の御願塚へ
戦後の御願塚で、人々は復興への努力を続けました。昭和20年(1945)9月15日、伊丹国民学校の分教場(ぶんきょうじょう)として、御願塚に新しい小学校が開校しました。現在の南小学校です。この小学校は、まさに終戦の翌月に誕生した訳ですが、そのことは、御願塚の人々が復興の第一歩として、何よりも子どもたちの教育をこそ、大切と考えたことを示す話として、語り継がれています。
やがて、開発の時代に入り、御願塚にも変化が訪れます。昭和40年代半ば、御願塚を新幹線が通ることになったのです。ただ、線路の敷地上には須佐男神社がありました。須佐男神社は、北の宮(北神社)の敷地に移されることとなり、昭和46年(1971)に線路は完成しました。
かつて、北の宮の境内だった場所には、現在は北の宮と須佐男神社の社殿が並んで建っています。こうして御願塚では、戦前にできた稲野駅や稲野住宅地に加え、戦後には南小学校ができ、新幹線が通り、須佐男神社と北の宮が同じ境内に並ぶようになりました。現在の御願塚の姿はこうしてできあがったのです。