市立伊丹ミュージアム

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旧岡田家住宅・旧石橋家住宅

旧岡田家住宅について

旧岡田家住宅には、正面に店舗、奥に酒蔵、その間に釜屋・洗い場が並んでいます。建立時期は、店舗が江戸前期の延宝2(1674)年、酒蔵は少し遅れて正徳5(1715)年頃と考えられています。釜屋・洗い場は江戸後期に建てられ、その後大きく改造されて今日に至っています。建立者は、江戸前期の酒造家松屋与兵衛であったことが、古文書と在銘礎石などから推測されます。蔵の所有は享保14(1729)年に鹿島屋清右衛門に移り、明治に入り安藤由松を経て岡田正造へと渡り、昭和59(1984)年まで(株)大手抦酒造の北蔵として酒造りが行われていました。ここで醸造されていた酒は、江戸時代には松緑、岡田家の所有となって以後は富貴長・大手抦が主要銘酒でした。
旧岡田家住宅は、伊丹の町家としてもっとも古く、全国的にも数少ない17世紀の町家のひとつです。また江戸時代に栄えた伊丹の酒造りを今に伝える遺構として大変貴重な建物です。

旧石橋家住宅について

「旧石橋家住宅」は江戸時代後期に建てられた町家です。正面は摺り上げ大戸やばったり床几(揚見世)、出格子がはめ込まれています。つし2階は4か所に虫籠窓を設け、軒まで白壁で塗り込めているなど、建設当初の店構えを残していることから平成13年に県指定文化財になりました。
石橋家は、17世紀後期に初代弥兵衛が昆陽口村で八百屋(よろずや)を開業したのが始まりであるとされています。そして4代目から北少路村(宮ノ前1)に移り住み、5代目より「古手屋茂兵衛」を名乗りました。明治以降は紙・金物等の小売業と酒造業を兼業し、その後、日用品の雑貨商を営みました。

旧岡田家住宅と旧石橋家住宅は、日本遺産「『伊丹諸白』と『灘の生一本』~下り酒が生んだ銘醸地、伊丹と灘五郷~」の構成文化財にも認定されています。日本遺産については下記をご覧ください。

日本遺産

清酒発祥の地

戦国時代の武将山中鹿介幸盛の子である新六幸元が、戦乱を逃れるため大叔父を頼って現伊丹市北部の鴻池に落ち着き、酒造業を始めました。そして、1600(慶長4)年頃に清酒の醸造法を発見したと伝えられています。新六幸元は鴻池で造った酒を馬で江戸まで運んで販売し、大きな利益を得たといいます。新六幸元の八男善右衛門は大坂に出て酒造業を営み、後には両替商として成功しました。
鴻池児童遊園地内には、「亀趺」(仙人の乗り物とされる亀蛇という空想上の生きものの台座)の上に古代中国の貨幣である「布貨」をかたどった鴻池稲荷祠碑があります。碑文は大坂の私塾「懐徳堂」で活躍した儒学者・中井履軒(積徳)が鴻池村山中本家からの依頼を受けて作成したもので、大坂の鴻池家が山中鹿介の末裔であること、初めて諸白澄酒を造り、江戸に送って富を築いたことなどが記されています。

鴻池稲荷祠碑
山中新六幸元(鴻池合資会社提供)
尼中鹿之助幸盛(太平記英勇伝)

伊丹酒 江戸へゆく

伊丹の酒はそのほとんどが江戸へと送られました。内陸である伊丹からは、まず馬借によって神崎(尼崎市)まで運ばれ、神崎から伝法や安治川口(ともに大阪市)まで船で運び川口の問屋に集積、そして伝法や安治川口から江戸までは、酒樽専用の船である樽廻船によって輸送されました。酒造家は荷主としての権益保護を主張していく必要がありました。たとえば、馬借による運送の際、「重量が不足していれば馬借に弁償させる」「暴れ馬には駄賃を払わない」ことなどが定められ、さらには「樽の中の酒を抜き取ってはいけない」といったユニークな取り決めもありました。江戸時代、美酒を運んだ人々のリアルな情景が浮かぶようです。

樽廻船模型
伊丹馬借株札

江戸で愛された「丹醸」

幕府成立後、江戸の人口は増え続け、江戸時代後期には100万人以上であったと言われています。全国商品の集散市場として展開していた大坂からは、様々な物が江戸へと運ばれました。上方の酒造業はこのような状況下で商品生産として円熟し、伊丹郷町の酒はそのほとんどが江戸へ送られました。文化・文政年間(1804-30)はそのピークで、とくに1804(文化元)年には1年間で27万7704樽(10万石)が江戸へ積み出されています。伊丹郷町で醸された酒は「丹醸」と称され、江戸の人々から人気を博し、偽物までつくられるほどでした。

銘酒づくし
『摂州伊丹菰樽銘鑑』より「白雪」
『摂州伊丹菰樽銘鑑』より「老松」

江戸時代の酒造りって?

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