市立伊丹ミュージアム

伊丹市の歴史

江戸時代の村

池尻村―武庫川・昆陽池・行基―

伊丹市域と池尻村の位置

池尻村とは

 池尻村は天正年間(1573~92)以前は昆陽庄のうちとして昆陽寺領で、天正7年(1579)から同9年まで池田輝政の知行所となり、その後に増田長盛の領地となりました。文禄3年(1594)に片桐且元により検地(太閤検地)が行なわれ、豊臣氏滅亡後は江戸幕府領となっていました。
 元和3年(1617)、南野村の一部(残りは尼崎藩領)とともに伊予国大洲(愛媛県大洲市)を本拠とする加藤氏の飛び地の領地となりました。
 その後、安永9年(1780)、大洲藩加藤氏領の池尻村と南野村の一部は幕府領に戻りました。ただ、池尻村と南野村の一部は大洲藩加藤氏の預所ということになり、幕府領でありながら、領地の管理は引き続き大洲藩加藤氏から派遣された役人が担当しました。

明治2年池尻村絵図(池尻会文書)

大雄山 最禅寺 

 池尻村に伝えられた「寺社着込帳」によれば、もとは「最福寺」という寺で、明暦年間(1655~58)以前は真言宗、天和年間(1681~84)ごろには浄土宗の寺でした。
その後元禄5年(1692)頃、播磨国網干龍門寺(臨済宗)の盤珪(ばんけい)の弟子の聖瑞(せいずい)という禅僧が住職をしていました。同6年、池尻村の領主加藤氏の本国である伊予国大洲の富士山・如法寺(盤珪再興の寺で加藤氏の菩提寺)の末寺となり、寺号を「最禅寺」と改めました。幕末に曹洞宗に変わり、現在は陽松庵(池田市)の末寺となっています。
 寺宝として、藩主加藤氏や盤珪、上島鬼貫ゆかりのものが伝えられています。 

最禅寺

昆陽池と池尻村

 「行基年譜」という記録に、行基の造った池として「昆陽上池」・「昆陽下池」があったとされています。現在の昆陽池は「昆陽上池」にあたりますが、「昆陽下池」は現存しません。
 「池尻」という地名は、かつて存在した昆陽下池の尻にあたる(接している)ことに由来するという説(『川辺郡誌』)が有力です。この説は、江戸時代のさまざまな古文書や絵図から裏付けることができます。
野間村の記録「万覚帳」から、慶長13年(1608)に昆陽村と池尻村が昆陽下池を埋めて田地にしたいと願い出て認められたことがわかります。
 また、池尻村に残された絵図「元文5年池尻村・新田中野村境堤争論絵図」からは、昆陽下池が今の昆陽池(昆陽上池)の西方、池尻村の北側にあったことをうかがうことができます。
 このように古文書や絵図を読み解くことで、現存しない昆陽下池と池尻村との位置関係、そして「池尻」の地名の由来がわかるのです。

元文5年池尻村・新田中野村境堤争論絵図(池尻会文書)

慶応2年武庫川筋洪水

慶応2年(1866)8月、大風雨により武庫川筋に洪水がおこりました。昆陽井の取り入れ口や堤防が決壊、池尻村の生命線の横手堤も3か所が切れ、池尻村や西野村(新田中野村のうち)、西昆陽村(尼崎市)などで、多くの田地が流失・冠水・石砂入りといった被害をうけました。

行基と昆陽寺の信仰

奈良時代の名僧として知られる行基(668~749)が建てた「崑陽布施屋」を継承したのが昆陽寺であると考えられています。また、川辺郡では、昆陽上池・昆陽下池など5か所の池と2か所の溝の築造を手がけたと「行基年譜」という記録に記されています。
 伝道とともに大規模な土木事業を手がけた行基は、菩薩と呼ばれ、社会的な名声を得ました。そして後世においても信仰の対象であり続けました。
 池尻地域には行基に関係する記録が伝えられています。ただ、これらは行基と同時代に書かれたものではなく、江戸時代に書かれたものです。行基の伝記や関係する史料を参照して書かれたものと考えられます。
 行基についての新発見はありません。とはいえ、江戸時代の昆陽寺周辺の人々が行基・昆陽寺と強く結びついていたことを示しています。 

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