市立伊丹ミュージアム

伊丹市の歴史

江戸時代の村

南野―領主・村医者・むぎわら音頭―

伊丹市域と南野村の位置

南野村とは

 南野は、猪名川と武庫川の間の平野部、伊丹市域の南部に位置し、有馬街道に沿っています。南野という地名は、猪名野の南部に位置するからであるという説と、昔の児屋(こや)郷の南部に位置するからであるという2つの説があります(『川辺郡誌』)。
 氏神は牛頭天王社と天神社、寺院は了福寺・正念寺・教善寺・善正寺があり、用水は武庫川から取水した昆陽井(こやゆ)から引いていました。
 近代に入り、明治22年(1889)には南野村をはじめ昆陽村・千僧(せんぞ)村・御願塚村など10ヶ村が合併して稲野村となりました。昭和15年(1940)には伊丹町と合併し、全国で174番目の市として伊丹市が誕生しました。昭和46年に山陽新幹線が南野の北部を横断して開通し、昭和58年には笹原中学校が開校しました。平成7年1月17日の阪神・淡路大震災では、地域の多くの家屋が被害を受けました。
 また、地域に伝承されている「摂州兵庫功徳盆踊(麦わら音頭)」は、県指定無形民俗文化財となっています。音頭はむぎわら音頭保存会によって受け継がれ、現在も市内各地の祭りや盆踊りなどで踊られています。

領主―相給の村―

 南野村は、近世初期は幕府領で大和小泉藩(現奈良県)の預り地でした。預り地とは、幕府領の支配を近隣の大名や旗本などに委託したものです。
 元和3年(1617)からは、①幕府領・②尼崎藩領・③伊予国大洲藩 (現愛媛県)領の3つに分割されます。このように複数の大名によって支配されることを、「相給(あいきゅう)」、入組支配といいました。
 このうち①幕府領は元禄7年(1694)から武蔵国忍藩 (現埼玉県)領、文政6年(1823)には再び幕府領、文政11年には尼崎藩領となります。②尼崎藩領は近世を通じて変わることなく、③大洲藩領は安永9年(1780)に公収され幕府領となりますが、大洲藩預り地として明治維新を迎えます。
 同じ村でありながら、これらの領地は別々に管理され、のちに村明細帳などの帳面も領地ごとに作られるようになります。

在村医―村のお医者さん―

 江戸時代、笹山家は南野村の在村医として地域の医療に貢献していました。そのため、様々な医学書や、治療記録、医療用具などが残されています。江戸時代の医師はどのような書物から知識を取り入れ、どのように治療を行なっていたのでしょうか。
 笹山家は、戦国期には近江・佐々木氏の家臣でしたが、初代・成定(徳庵)のときに、母方の縁で姫路藩医・笹山法橋道庵の家を継ぎました。江戸時代、武士階級出身の者が医師になるということが多くありましたが、笹山家もその一例といえます。その後、理由は不明ですが、大坂周辺の佃村や尼崎などを放浪し、2代・成基(玄悦)のときに南野村で医師として暮らし始めます。そして、3代の成時寿庵)以降、明治に入るまで南野村の在村医として地域の医療に貢献し続けました。笹山家に残された史料の多くは、この3代・寿庵以降のものと考えられます。のちに、笹山家の医師は代々「寿仙」を名乗るようになります。
 治療記録である「諸事控」や、患者からの書状などから、医師がどのような治療を行なっていたかをうかがうことができます。江戸時代、診察は医師が患者のもとに出向く往診のかたちをとっていました。かかりつけの医師も決まっておらず、良い医師がいると聞けば遠くから医師を呼び寄せたりもしていたようです。笹山寿仙も南野村だけでなく、他村へも診察に行っています。
 また、笹山家に代々伝わる薬を商品化して売り出したりもしています。家伝薬は、戦国時代には公家や武家など富裕層の贈答品でしたが、のちに一般家庭へも普及し、寺院などで多く販売されるようになりました。当時の診察が往診中心であったため、緊急時に備えて置き薬の必要性が高まり、薬売りなども出現しました。

医療用具

 笹山家には、実際に診療に使われていた用具も残っています。生薬を粉末にすりつぶす薬研や、アルコールなどを蒸留する蘭引の一部、薬用のふるい、蒸留水入れ、劇薬用の乳鉢や各種の薬瓶などがあります。

医学書

 江戸時代の医師は、様々な医学書から医学の知識を得ていました。笹山家の蔵書には、版本(刊行されたもの)だけでなく、写本(他人が書き写したもの)や、何冊もの本から一部ずつ抜書きしたものなど様々なかたちの書籍が残されています。版本は刊行されたものであるため、ほかの家にも同じものが残存している場合もあります。そのため、一冊ずつにはあまり価値がないと考えられがちですが、その家の人々がどのような目的や興味をもって書籍を収集したかを知ることができる貴重な史料です。
 笹山家の蔵書には、日本で出版された中国の医学書や、『阿蘭陀療治和書』などオランダの医学について記した医学書のほか、山脇東洋の『蔵志』、大槻玄沢校訂の『重訂解体新書』、華岡青洲による乳がんの治療書など最新の医学書も多数見られ、常に最先端の知識を得ようとしていたようすがうかがえます。また、医学書以外にも、和歌や漢詩などの歌集、茶道・華道などの作法書、馬術・弓術などの武術書、随筆や伝記・物語など様々な書物を読み、幅広く知識を取り入れていました。

華岡青洲

 華岡青洲は江戸時代後期の医師です。吉益南涯(よしますなんがい)に古医方を、大和見立(やまとけんりゅう)にオランダ流外科を学び、広く民間療法なども取り入れて和漢蘭折衷の医方を実践しました。寛政7年(1795)には、オランダ流外科で催眠・鎮痛に使われていたマンダラケ(朝鮮アサガオ)と、整骨医が鎮痛麻酔薬として使っていた烏頭(うず、ヤマトリカブトのこと)などを配合した麻酔剤「麻沸散(まふつさん、通仙散(つうせんさん)とも)」を創案し、文化元年(1804)10月13日にはこれを用いて全身麻酔下での乳がん摘出手術に世界で初めて成功しました。青洲の医術は門人によって筆記され、写本のかたちで伝えられることとなります。

むぎわら音頭

 南野地域には、むぎわら音頭と呼ばれる盆踊りが伝わっています。むぎわら音頭は正式名称を「摂州兵庫功徳盆踊」といい、江戸時代中期に始まったといわれています。その発祥については、僧行基が昆陽池を造った際に人夫・住民の慰安や供養のために踊ったものであるという説や、朝鮮からの渡来人を慰めるために踊ったものであるという説など、さまざまな説があります。
 むぎわら音頭は南野のほか、堀池・御願塚・野間など伊丹市の南東部から、富松・守部・久々知・坂部など尼崎市の諸地域で踊られてきましたが、昭和30年代にはほとんどの地域で踊られなくなりました。しかし、昭和44年(1969)に「むぎわら音頭保存会」が発足し、伊丹市の無形文化財に指定されたことから関心が高まり、レコードが製作されるなど普及活動が行なわれるようになりました。昭和52年には兵庫県指定重要無形民俗文化財に認定され、現在では、市内各地の盆踊りでむぎわら音頭が踊られています。
 むぎわら音頭は、手ぶり・足さばきにリズムがあり、太鼓や三味線と一体となって楽しく踊りがはずんでいきます。通常の踊りは「むぎわら踊り」で、これは麦の取り入れのようすを表現しています。そのうち興にのってくると、いろいろな生活様式の仕草や動物の動きなどを取り入れた「曲踊り」が踊られます。「曲踊り」には「もちつき」「あみひき」「手ぬぐい流し」「角力とり」「かまきり」など様々なものがあります。

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