市立伊丹ミュージアム

伊丹市の歴史

江戸時代の村

東桑津と西桑津 -猪名川治水と空港造成ー

伊丹市域と桑津村の位置

桑津とは

 伊丹東部の大阪国際空港から猪名川にあたる場所に東桑津村・西桑津村がありました。両村は猪名川の恵みを受ける一方、その治水にも苦慮してきました。また村の氏神である蘭大明神(らんだいみょうじん)では、春と秋に祭礼があり、ときに浄瑠璃や歌舞伎が境内で演じられていました。幕末期には東桑津村の遍照寺の住職であった明井華雲(あけいけうん)のもとに橋本香坡(はしもとこうは)・梶曲阜(かじきょくふ)などの文化人がつどいました。その後、昭和15年からの空港の拡張工事により東桑津地区の集落は消え、西桑津地区の一部も空港用地として接収されました。

江戸時代の東桑津村と西桑津村

 桑津という地名については、平安時代成立の『和名抄』に豊島郡桑津郷として記載があります。古文書で地名が確認できるものとしては、箕面市の勝尾寺(かつおうじ)文書の内、安貞元年(1227)の西桑津新荘内の田地売券(田地の売り渡し契約書)が現在のところ最古のものです。また、江戸時代初頭に作成された慶長国絵図には「クワス村」「東クワス村」の記述がみられ、それぞれ西桑津村・東桑津村を指すものと考えられています。
 このように江戸時代の初めには、東桑津村と西桑津村は分立していたことが確認されていますが、両村ともに同じ用水を使用し、猪名川河川敷を共同で開発するなど、江戸時代を通じて深いつながりを保ち続けていました。

宝永7年東西両桑津村地先猪名川絵図

猪名川と人々の暮らし

 江戸時代の猪名川の川幅は現在よりはるかに広く、桑津神社の東側を南北に走る道路が当時の堤防の位置にあたります。東桑津村と西桑津村では、農業用水や生活用水として猪名川の水を利用していました。猪名川から取水する用水路、井(ゆ)のうち、両桑津村と関わるのは、中村井・九名井(くめいゆ)・森本井の3つでした。これらの井は、両桑津村や近隣の村々に水の恵みをもたらし、人々の生活とは切っても切れない関係でした。しかしその一方で、ひとたび洪水が起こると村の人々を苦しめることともなったのです。

神社と寺院

 江戸時代には、東桑津村と西桑津村それぞれに「蘭大明神」と呼ばれる神社がありました。明治時代に入り、東桑津村の神社は「火闌神社」(ほすせりじんじゃ)、西桑津村の神社は「火明神社」(ほあかりじんじゃ)と呼ばれるようになりました。
 また寺院については、東桑津村に遍照寺(浄土宗本願寺派)、西桑津村に安楽寺(浄土真宗本願寺派)があり、村人の信仰を集めていました。安楽寺では、摂津十三日講も開かれ、この講には周辺地域の村々の人たちも参加するなど、浄土真宗本願寺派の寺院や門徒のネットワークがつくられました。

安楽寺本堂

幕末維新期から明治時代の桑津

 幕末維新期における桑津の寺社は、漢詩や書画といった文化活動の中心にもなっていました。東桑津村の遍照寺の住職明井華雲(1839年生まれ)は、伊丹郷町の郷学「明倫堂」(めいりんどう)の初代教頭を務めた橋本香坡や、俳人の梶曲阜らの文人墨客と交流し、優れた書画作品を残しました。香坡に漢学を学んだ華雲は、寺子屋を開いたのち大塚小学校の教員になっており、このような幕末期の交流が桑津の初等教育を支えていたといえるでしょう。
 明治時代になると、明治政府によって地方制度は頻繁に改変されました。江戸時代以来の村は統廃合され、近代的な新しい村として再編成されたのです。東・西桑津村は明治5年(1872)の兵庫県区制の整備によって兵庫第十二区に、明治13年(1880)の連合町村戸長制では第二戸長役場の管轄に、さらに明治22年(1889)の市制町村制実施により神津村に属することになりました。これ以降、東・西桑津は神津村の大字(おおあざ)となりました。
 行政区域上の変化は、徴税方法の改変や小学校の統廃合など、人々の生活と密接に関わる事柄の変化とも連動していました。小学校については、明治6年(1873)、酒井村・岩屋村・森本村・東桑津村・西桑津村・小阪田村・中村・下河原村の8か村が合議して遍照寺で大塚小学校を開校します。その後、大塚小学校は明治11年(1878)に西桑津村に移転して川東(せんとう)小学校となりました。 
 明治以降の「近代化」政策は、村の人々の生活を徐々に変えていくことになったのです。

橋本香坡・明井華雲合作碑(遍照寺)

空港の造成・拡張と村の変容 ー空港の造成・拡張と解村ー

 昭和以降の桑津の歴史については、空港との関わりを抜きにして語ることはできません。
 現在の大阪国際空港のもとになる大阪第二飛行場の開場式が小阪田(おさかでん)で行われたのは、昭和14年(1939)1月17日のことです。大阪の木津川飛行場が手狭になったため、政府は新飛行場設立を急務と考え、大和川尻の埋立地に飛行場(大阪第一飛行場)を計画しますが、昭和9年(1934)の室戸台風による被害で第一飛行場は一番機が飛び立つことなく消えてしまいました。そのため、神津村の小阪田・中村・東桑津・西桑津の四集落に囲まれた約53万㎡の耕地に新飛行場を建設することとしたのです。
 しかし、飛行機の大型化が進み、完成した飛行場もすぐに手狭となります。昭和15年(1940)10月には敷地面積165万㎡、国内最大1200mの滑走路4本を造成する拡張工事が始まり、名称も「阪神国際飛行場」と改称されることとなりました。この頃になると軍事的色彩が強まり、用地買収や民家の移転には軍も関与するようになっていました。結局この拡張工事によって、東桑津(19戸)と小阪田(52戸)の集落が地図上から消えることとなり、解村式が行われました。また同時に西桑津の耕地もその多くが空港用地として接収されました。

東桑津村解村式

遍照寺の移転と桑津神社への合祀

 飛行場の拡張にともない、東桑津地区にあった遍照寺は市内鈴原町7丁目に移転することとなり、昭和17年(1942)3月に落慶法要が行われました。また同年4月には、東桑津地区の火闌神社と西桑津地区の火明神社は合祀され、桑津神社として現桑津1丁目に移転しました。桑津神社には合祀前の両神社にあった貴重な棟札や絵馬などが受け継がれています。
 戦時期に軍用に転換された飛行場は、敗戦後もアメリカ空軍基地に接収されます。返還式が行われたのは昭和33年(1958)3月です。この時「大阪空港」と改称され、翌年には現在の「大阪国際空港」となりました。その後の再度の空港拡張工事によって、昭和39年(1964)、中村にあった素盞嗚神社も桑津神社に合祀されました。
 このように空港の造成・拡張の過程は、地域に根付いていた寺社のあり方を変え、村の風景を大きく変える歴史的なエポックであったのです。

大坂国際空港(平成25年)

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