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伊丹市の歴史
江戸時代の村
中村
中村とは
中村は猪名川の左岸に位置し、西桑津村の北西にあたります。
文禄3年(1594)9月17日石川久五郎によって検地が行われましたが、検地帳は紛失しています(享保6年「村明細帳」中村文書)。慶長国絵図に村名がみえ、髙441石余。寛文7年(1667)巡見使が廻村した際に願い出て、堤の外に田畑七反の開発を行いました。元和3年(1617)の摂津一国御改帳では幕府領建部与十郎領地。寛永3年(1626)大坂城代阿部正次領、慶安元年(1648)幕府領に戻り、同2年大坂定番安部信盛(武蔵岡部藩)領。寛文2年分知によって旗本安部(信直系)領となります。ただし年貢徴収は北河原村に居住する本家の岡部藩役人が代行していました。宝永5年(1708)幕府領に戻り、延享3年(1746)から三卿の田安領となって明治維新を迎えます。
享保9年(1724)流作場の新開を願い、同11年から開発して元文元年(1736)に6石を髙入れします。このとき、流作場北側を牛飼場としてともに幕府領としました。しかし、同地は猪名川と箕面川の合流点の下流にあり水害に遭いやすく、元文5年・寛延3年(1750)・宝暦8年(1758)と再三洪水に遭い、流作場は宝暦8年から「取米なし」となり、髙掛銀だけを納めました。また本村も水害で延宝4年(1676)に71石が見捨に、正徳元年(1711)に66石、同2年に61石が皆無となったほか、元文5年には猪名川の堤に加えて箕面川の堤が上流の豊島郡瀬川村(現箕面市)で切れ、村内を流れる中村井も4ヵ所で切れたため、188石余の耕作が難しくなり、年貢減免を願い出ました。
用水は猪名川から取水する西桑津村・東桑津村と立会の中村井と出水(でみず・湧き水のこと)がありました。享保6年・延享2年には野井戸も7ヵ所、安永8年(1779)にも6ヵ所ありました。
寛正8年(1796)、中村井からの取水をめぐって東西桑津村との間で争論が起きました。宝永5年には西桑津村が中村の墓地の東を開発して争論になり、境界を定めて和解しています。享保6年は62軒(百姓49軒・水呑11軒・寺2軒)あり、人口は379人、また医師・穀物肝煎口銭取・小間物売が各1軒でした。農間余業として、男性は下河原村に集められた米を伊丹郷町の酒造家向けに賃踏し、馬借所に口銭を出して、牛を使い池田村(現池田市)から伊丹・尼崎へ荷物を運んでいました。元禄10年(1697)改の酒造株髙は13石で、宝永元年からは休株となっています。
産土神は牛頭天王社(明治維新で素盞嗚神社と改称)。河原に古宮がありましたが、再三堤が切れるため同社境内に移転しました。また寺院は浄土宗法性寺、浄土真宗本願寺派来恩寺がありました。法性寺は天正15年(1587)の開基といいます。来恩寺は寛文11年に寺号、元禄14年に木仏免許といいます。また、ほかに紫竹庵・円通庵がありました。享和元年(1801)、歌人で桂園派の祖香川景樹が紫竹庵住持の梁岳法師を門人とし、翌年円通庵に滞在しています。
昭和11年(1936)、大阪第二飛行場の建設で耕地46町のうち36町が用地となって以降、耕地がしだいに空港敷地となり、同39年からの大阪国際空港拡張工事によって住民は移転、来恩寺は伊丹市昆陽に、法性寺は中野西に移転しました。
(『兵庫県の地名 Ⅰ』(平凡社、2001年)より)